韓流ドラマ「ホジュン」を観ていた。
ホジュンわかるかな?w
韓国の徳の高いお医者の波乱万丈記なのですが、
若かりし頃は人生がうまくいかなくてグレたりしたものの、ハタと我に返り医術一筋に生きるお医者の話。
その話の後半。
医者の最高峰、「御医(オイ・王様専属の医者)」になるのですが、
王様の崩御の責任を取らされて、斬首されてしまいそうになるのですが、(王様死ぬたびにかよ…)
次の王様はホジュンにお世話になっていたので、ホジュンを殺したくなくて「流刑」に。
流刑先で身の回りの世話といいつつ、偵察を命じられた奴隷女子がいたのですが、
その奴隷女子、実は医者の娘さんで、その父が倭国との戦争の時(豊臣秀吉め…)自国の兵士の怪我も治したものの、
戦争が終わって倭国の兵士も治したことがわかってしまい、斬首。
その時に母も亡くなって、天涯孤独になり奴隷になった。
だから医術の心得があったことをホジュンが見抜き、少しずつ医術を教え始めた。
でも、その女子が「医術を学びたい」という意志があったからこそ、ホジュンが見抜くことができたわけで。
何かを「し・たい」という気持ち。
何かを「食べ・たい」。
自分を「変え・たい」。
「見・たい」 「聞き・たい」 「経験し・たい」 などなど。
何かを「○○し・たい」というその「たい」という部分には、「意志」がある。
お腹いっぱいの人にどんなに豪華な食事をご馳走したとしてもそこに「たい」は含まれない。
口先で「勉強し・たい」とか言っていても、自身の「たい」じゃなくて、
誰かの希望だったり、誰かがなんとかしてくれるだろうと、自分で動かない、学ばない人にいくら手を差し伸べても、
徒労に終わることが多い。
いつまでも新鮮な「たい」を持ち合わせていること。
そんな人が自分であっても、他人であっても、一緒に楽しめる人だなぁとホジュンを見てしみじみ思う。