人間ってそんなに単純じゃない。
と、常々思っている。
なのに、すごく単純に見ようとしている人の発言は、
その物言う相手自身を、もれなく見ようという視点に欠ける。
でもって、かなり威圧的な「断定」をもって確定している気がする。
人それぞれの成長ポイントやスピードがあるから一概に言えないけれど、
成長点で「あのハードル超えた人ね」って思えるのは、超えた人しかわからない線引きだ。
明らかにものすごく頑張ってコツコツやってきた人と、ごまかしてきた人とではその言葉の端々に感じる
「物事に対する謙虚さ?誠実さ?」といいますか、リアリティーの内在性が全然違う気がする。
(自分自身を甘やかす傾向。。)
自分の手や、考えに対して、「知らない」や、「わからない」ということを自覚しているかいないか。
いつでも、「私は何も知りません」という目線でものを見る、興味を持つということと、
「そんなこともわかんないのかしら?」という目線では、学びの度合いが違う。
そういう人に限って、周りに金魚の糞的な人が群がっている気がする。
いえ、周りにいる人も自分探し(自分軸)道半ば、きっと頑張っていることなのでしょう…。多分。
「自分探し(自分軸)っ」てなんよ?って?
自分の考え、趣味、思考、etcが他人の価値観に犯されないってことなんじゃ?と、思っております。
それって、「楽しむこと」の線引きと似ている。
スキーに行くのに、スキーが嫌いな人と出かけないのと一緒だ。
自分の趣味嗜好、感情の琴線、一体自分はなんなのか?と、一つ一つ検証していく中で、
超えられるハードルを横目で見ている人と、「えい」と超えられる人の違いは、
「自分軸(大切にしなければいけない個性)」を理解した上で、弱点を超えられる人と肩を並べる方に重きを置くのか、
置かないのかなんじゃなかろうかと思う。
だからこそ、金魚の糞(俗に言うミーハー)をはべらしている人は、その状況を理解してないんじゃなかろうか?
金魚の糞の方を便利に使ってるんじゃなかろうか?と思う。(飴と鞭を使って、依存させたりね)
それって「肯定」の立場に立たせて、弱点を見ないふりされてるんだろうなと。
一人じゃなんもできないのですが、基本は「一人」でも大丈夫な世界に居なければ、
超えられるものも、超えられないわけで。
弱点は最終的には強みになるのになと。
間違いを正してくれる相手=整った鏡。
白雪姫の魔法の鏡だ。
嘘偽りなく自分を見られる鏡。
周りにいる人、そして自分自身の心の鏡は、常に綺麗に磨かないといけないなと、
人のふり見て我がふり直せだな。と、思った今日この頃。