小難しい話をつねづね頭の中でこねくっているわたくしですが、
「成長する」ということが、出世のことなのか?何かができるようになることなのか?
はたまたよく言われる、
「精神(魂)の成長」だとして、それは「痛い目」をみることで成長すると言われていますが、
何から何まで痛い目見なくてもいいんじゃないか。と。
人は一人ではないので、社会の中で色々あるわけですけれど、
その中で確固たる自己がない人だと、他人の意見に流されたり、依存したり、依存されたり
それが「成長」にとって手枷足枷になる。
確固たる自己への自信って、だったらどうしたらいいのだろう。
それは「肯定される」という経験なのではないかと。
家庭という経験は、一番初めの社会経験の場だと思うのですが、親が子供の主張をのびのびと育ててくれた人と、
親の思い通りにするために(要は石橋を叩いて渡る=愛情の裏返しなのですが)子供の意思を否定した人。
どっちらが「魂の成長」なんでしょう?
修行的には「否定された子供のほう」だと思いますが、仏教の中で「悟り」の境地は「否定の意識がなくなり全てが肯定の意識に変わった状態」とか言われちゃうと、辛いことも通り越して最終的には「のびのび」な状態になるんじゃね?
とか、思ってしまった。
まあ、なんでも経験なのですが、暖かい家庭と、そうでない家庭。
どこをどう通っても、「悟りの境地」が最終ミッションなら、暖かい家庭でもいいんじゃね?
意見がぶつかり合うことで、解決がもたらされるのではなくて、平行線だとすると、
まとまることで問題解決の糸口が増えるほうと、減るほうだと、解決できるほうがよりいいのではないだろうか?
要は、最終的に社会や団体や家族がまとまった時に、お互いの主張が解決されるほうがより良いはず。
意見は違っていても問題ないけれど、それが利己的ではなく、利他的になり、
それはお互いを肯定しあう、ひいては、自分自身の肯定に繋がっていくのではないだろうか?
意見が通じない、言うことがためらわれる、言ったら否定される、という団体の中で、自分を発揮するのは難しい。
やはり、団体になった時のそれぞれの人間の懐の深さ。
先日見た「アベンジャーズ」もお互い意見の食い違いはあっても、最後「地球の存亡」とかなので、
折り合いつけてたしw
これからの自分の実験としては、その「安全な場」を作ることのような気がする。
違う意見。だからより良い意見になる。
自分としては、当たり前だけれど、思ったほど当たり前じゃないんだなと思う今日この頃。