罰ゲームは、ハッピーゲーム?
何かをしくじったときに「罰ゲーム」をすることがある。 たまたま見ていたテレビの情報でふと気づく変なテーマが今回はこの「罰ゲーム」。 ある人にとっては「歌うこと」が苦手で、それは罰ゲームになりうるけど、歌が得意な人にとっては楽しい出来事でしかない。 罰ゲームはその人にとって苦痛、苦手なことが対象になる。 そこで、自分の苦手は何だろう?と考えてみた。 よく、肉体的な痛みとして、電気ショックとか、デコピンとかそいうのは確かに苦手だけれど、これは誰しもが苦手なこと。 万人にとっての苦痛は罰じゃない、ただの苦痛。(他人の不幸は蜜の味的な…) そんなこんなで、私にとっての罰ゲームはただじっとだまって座っていることかもしれない。 なんにもしないこと。 でも、これは周りの人が楽しめないし、自分とって苦痛だけど楽チンですww(一生って言われたら怒るけどね) 巷の「罰ゲーム」は当人の「困ったな、恥ずかしい、いやだなぁ」を周りの人が楽しむという要素もある。 そんなこんなで、人様が苦手なことが、意外に苦手じゃないことに気づいた。w でも「罰ゲーム」として、怒鳴られ続けるとか、おやつ抜きとか、いろいろ考えてはみても、私にとっての「苦痛」はとても原初的な誰もが「苦痛」と感じることなので、周りの人が「いじめ」的によってたかっていじめる内容のことになる。(他人の不幸は…的) よく人付き合いが苦手、人前で話すことが苦手、歌うことが苦手、絵を描くことが苦手、とか、「苦手」は、もしや、「上手じゃない」ということが根底にあるのでは!? おや?! そして、克服ができそうな物事には、喜びや、笑いがくっついてくる!? 本当の罰ゲームって、「できるようになる」ことなんじゃない? 罰ゲームは「克服ゲーム」だとしたら、とてもハッピーなんじゃない?