名言:アインシュタイン

気になるアインシュタインの名言集。 疑いもせずに「権力」を重んじることは、真実をもっとも遠ざける行為だ。 この世に存在する困難に直面し、それを理解しようとしたとき、自分の知能が全くもって役に立たないということに気づく。 人は、それを理解できる程度の知能しか持ち合わせていないのだ。 ナショナリズムとは幼児病で、言わば、人類が患う”はしか”のようなものだ。 空想は知識より重要である。知識には限界があるが、想像力は世界を包み込む。 教育の目的は、「社会が直面する最重要課題の解決」に力を尽くすために、自ら考え行動できる人間を育てることでなければならない。 ほとんどの教師が、生徒に知らないことを発見させようと質問ばかりして、時間を無駄にしている。 知っていることに気づかせること、知るための方法に気づかせることを目的とするのが、意味のある質問であり、本当の教育だ。 幸せ者というのは、現状に十分満足していて、未来についてあれこれ考えたりしない。 重要なのは、疑問に思う心を失くさないこと。探究心は、存在しているだけで意味がある。 問題は、抱えた時と同じ考え方でいる限り、解決しない。 人類は行動を起こすものだ。たとえ何も見つからなくても、成功はそこにある。 教育とは、学校で学んだことを一切忘れてもなお、覚えているもの。 過去から学び、今日のために生き、未来に対して希望をもつ。 大切なことは、何も疑問を持たない状態に陥らないことである。 何も新しいことに挑戦しなければ、挫折を経験をするわけがない。 他人のために尽くす人生こそ、価値ある人生だ。 自分の目でものを見て、自分の心で感じる人間が、どれほど少ないことか。 成功者ではなく、価値ある人間を目指すべきだ。 どんなに実験を繰り返しても、私が正しいことは証明できない。けれどたった一度の実験で、間違っていることは証明できる。 シンプルに説明できないのなら、それは十分に理解していないということだ。 優れたアイデアを記録したノートを持っているか?と問われれば、「生涯で持ったノートは1冊しかない」と、答えるしかない。 真の知性とは、知識ではなく想像力だ。

中心の資質

富良野と倉本聰さんのドキュメンタリーをやっていた。 富良野塾という、俳優養成システムがあったことはうっすら知っていたものの、 その卒業生達が、倉本さんに見出されて、俳優とはまた違った別の才能を花開かせていることに驚いた。 何か一つ、その人に合ったことを見つける。 俳優という道は、その途中のきっかけだったのかもしれない。 自分が「これがやりたい」と思っても、実際それをやってみて「合っている、合っていない」はわかるもの。 合ってないから「ダメ」でもなく、実際のところ、皆んな「何が合っているのだろう」と探しているのだ。 その人の中の、「これが得意なのでは?」を見つけることは、 何かのグループにおいて、そのリーダーに望まれる資質なんだと思った。 幅広い知識と経験、観察眼。 そして、考える力。 私もいろんな可能性を探して、あっちに行ったり、こっちに行ったり、いろいろな経験はしたと思う。 そして、いろんな人、いろんな仕事、いろんな遊び、いろんな勉強を結構幅広く貪欲に貪ったような気がする。 その幅があるから、人と会って、 「あ、この人面白いな。」や、「あ、この人伸び代あるな。」とか、「一体何考えてるのか興味あるわぁ」だとか。 まだまだ未知の可能性が横たわっていることに気がつく。 すべての総合芸術という分野に携わる人は、人間やその周りの出来事に、鋭い目を持っていないと表現が浅くなる。 だからこそ、「その本質」にたどり着くのが早いのかもしれない。 倉本聰さんは、思い立ったが吉日的に、周りを巻き込んで無茶なことを言ったりやったりする。 その物言いは、まっすぐだけれど、まっすぐだけだと面白くないよねというひねくれた角度も持っている。 純真と不純。 表と裏。 すべては一方向では終わらない。 でも、進むべき道はとても真摯にまっすぐだ。 だから、周りの人も安心して「困ったなぁ」と思いながらも頑張ってついていくのかもしれない。 何かの中心にいる人は、真実や安定を握りしめながらも、どんどん殻を脱ぎ捨てて刷新されていく力があるのかもしれない。 倉本聰さんご本人が絵を描いたり、森を作ったり、そんな創造性や審美眼にも、文章を書くときの緻密さと真摯さを感じた。 人間だろうが、自然だろうが、行き着くところは一緒なんだろうな。 そして、自分自身に対して、確固たる確信があるのだと思う。 ああ、こんな面白おばさんに私もなりたい。

「たい」の有無

韓流ドラマ「ホジュン」を観ていた。 ホジュンわかるかな?w 韓国の徳の高いお医者の波乱万丈記なのですが、 若かりし頃は人生がうまくいかなくてグレたりしたものの、ハタと我に返り医術一筋に生きるお医者の話。 その話の後半。 医者の最高峰、「御医(オイ・王様専属の医者)」になるのですが、 王様の崩御の責任を取らされて、斬首されてしまいそうになるのですが、(王様死ぬたびにかよ…) 次の王様はホジュンにお世話になっていたので、ホジュンを殺したくなくて「流刑」に。 流刑先で身の回りの世話といいつつ、偵察を命じられた奴隷女子がいたのですが、 その奴隷女子、実は医者の娘さんで、その父が倭国との戦争の時(豊臣秀吉め…)自国の兵士の怪我も治したものの、 戦争が終わって倭国の兵士も治したことがわかってしまい、斬首。 その時に母も亡くなって、天涯孤独になり奴隷になった。 だから医術の心得があったことをホジュンが見抜き、少しずつ医術を教え始めた。 でも、その女子が「医術を学びたい」という意志があったからこそ、ホジュンが見抜くことができたわけで。 何かを「し・たい」という気持ち。 何かを「食べ・たい」。 自分を「変え・たい」。 「見・たい」 「聞き・たい」 「経験し・たい」 などなど。 何かを「○○し・たい」というその「たい」という部分には、「意志」がある。 お腹いっぱいの人にどんなに豪華な食事をご馳走したとしてもそこに「たい」は含まれない。 口先で「勉強し・たい」とか言っていても、自身の「たい」じゃなくて、 誰かの希望だったり、誰かがなんとかしてくれるだろうと、自分で動かない、学ばない人にいくら手を差し伸べても、 徒労に終わることが多い。 いつまでも新鮮な「たい」を持ち合わせていること。 そんな人が自分であっても、他人であっても、一緒に楽しめる人だなぁとホジュンを見てしみじみ思う。

感覚言葉:歳

いったいどうして年上に思ったのだろう? その人をなんだかすごい歳とっている人だと思ったのは、 「すごいなぁ」と思う感覚があったから。 どんなに歳をとっていても、 「何言ってんだかなぁ」と思う人は、 年下に思えるんだよね。 「とし」って何だろうね? 重ねても重ねても、スカスカして重ならない空気みたいだ。 数えても数はなく、積み立てているのは気持ちかもしれない。

知識欲と経験のエネルギーバランス

誰かに頼るってすごく楽でいいですよね。 とはいえ、私は人に頼るのが苦手なので何かをやる時には綿密に事前に勉強したり、調べ物をする。 もしくは、人に仕事を頼む時にその「原理」や「方法」、「理屈」がわかっていないと、 最終的な「目的地=仕上がり」が煩雑になるので、リサーチする。 以前カフェギャラリーを始めた時も、事前に飲食の学校に行ったりして、あれやこれやと頭をひねって立ち上げた。 (その前身では、雑貨のネットショップをしていた。今思えばやってる人いなかったな…) その当時、この組み合わせのお店は少なかったと思う。(趣味的なお店はあっても本気のお店は少なかったと思う) だから、そのノウハウを聞きにいろんな人が訪れては、お茶一杯であれこれいろんなことを聞かれた。 (今なら確実にコンサル料くれっていうw) 最初のうちは、大変だったことやら色んなことをお話ししてあげていたものの、数が続くにつれて、 「皆んなどうして人の敷いたレールを走りたがるのだろう?」と、なんだか話すのがやになってきた。 それこそ、「楽だから(痛手の回避)」なんだろうなと。。。 ネットの仕事をしていた時も、最初は軽い仕事だったはずなのに、 「こいつ使えるな」って思われたが最後。 3人前くらいの仕事をドドンとさせられた。 (それも分野外の記事書かされたりとか、速報書かされたりとか、記者会見の動画撮影させられたり…。格闘技だったから寝技立ち技の勉強もしたな…w) そんなことが続くと、自分が時間やお金をかけて学んだ経験やスキルを、 お金(お小遣い?)で解決や、知り合いだからという理由で、能力を軽く使われることに疑問を感じるようになった。 それに、ここ数年ホロスコープに興味があったので勉強したものの、 軽く「見てみて!」という系統の人だったり、軽く「教えてよ〜!」という人たち。 興味があるなら、勉強しに行けばいいじゃん。やら。 本気で知りたいのかよ!とか、思ったりするわけで…。 「あ〜勉強する気ないんだ。」「本気で知りたいわけじゃないんだ。」と、 思ったら、テンション落ちるわけでw。 同ジャンルだろうが、別ジャンルだろうが、同じぐらい何かに没頭して勉強したり、感じたり、スキルが同じテンションレベルで話せる人と話す時はなんと楽なことか…。 って、こんなことを久々にブーたれてるのは、 以前「これやった方がいいですよね」って言ったのに、ものすごく叩かれて、 なんじゃそら?って思った素人さんたちがいて、その方達と仕事をすると、 私のエネルギーが削ぎ落とされる感じがしたので、 もういいやぁ〜って眺めていたのですが。 あれから1年。(きみまろ調) 今更ながら、「これやった方がいいよね」って、言い始めた…。 お金支払われたとしても、もう自分の気持ちが減る仕事はやらない。と、心に誓っているので、 絶対関わらない。(ってか、マネーはもらえる気がしないw) でもね、それってお金の問題じゃなくて、気持ちの問題。 火に油じゃないけれど、相乗効果じゃなくて、火に水をかけるのは、気持ち萎えます。 今、なんとも今後一生関わるであろう人の分別?が身の回りで起こっていて、 いやだなぁ〜と思ったり感じたりしている人とは、不思議に疎遠に。 楽しいことが始まりそうだなぁ、増えそうだなぁ〜という人とは妙な縁が繋がったり。 誰の仕業なんですかね?(私だがなw)

人生全てわかっちゃったら面白くないよねって話

本物のスピリチュアルの人を見たり知ったりしてしまうと、 イヤイヤそれ無理っしょな心持ちになる。 もし、自分の全ての人生が走馬灯のように分かってしまったとしたら、 その内容いかんにして、推理小説で言う所の「落ち」が分かった状態で本を読み進めなければいけないなんて… 耐えられないw ましてや、相手の全てが分かっても、どうすることもできないなんて…。 先日聞いたハワイの先住民族のスピリチュアルの最高峰のおばさまの話。 その方は、それぞれの人のそれぞれの人生が手に取るように分かるけれど、答えをダイレクトに言うのではなくて、これから先に起こる色んなことに対処して、力強く越えられるようにサポートしてくれる方だ。 でも、その部族では最高峰の長を選ぶ為に、イニシエーション(死にも匹敵する儀式)を行って、目覚めた子(生還した子)を長にするのだそうで、多分落ちたら死ぬよね的な滝壺の上から、3歳ぐらいで落とされて、生還した子がなるそうな。 そのおばさまは、その滝壺に落とされた時に自分の人生の最後までを走馬灯のように見た上で、受け止め生きる道を選んだ。 なんでもわかるからこそ、自分の娘さんがレイプされるのを分かっていても、母親なら子供が傷つくことを回避したいはずなんだけど、その一連の流れが大きな人生の流れの中で全て意味があることを分かっていて、そのレイプした男性も何故そのようなことをしなければならなかったのか、そのレイプで生まれてくる子もその母と父を選んで生まれてくることも分かっていたから、受け止めてサポートする立場を取った。 そしてある日、そのおばさまは子宮がんにもなった。 大事に大事にそのがん細胞を育てて、もうこれで限界!ってとこまで育てた。 本当はその部族は西洋医学の治療を受けてはいけない約束があったけれど、それはそれ。 そのおばさまは、腹部の癌の状態を逐一精密に絵を描いて、お医者もびっくりの精度で知らせて手術を受けた。 でも、手術は一切の麻酔なく、そして自分がその手術を逐一見られるように寝た状態ではなくて起きた体勢の状態で行われた。 歯に噛み締められる棒を咥えて痛みを堪え、無事手術は終わった。 その間、おばさまは世界の全ての女性の癌の痛みを癒す為に、祈っていたそうだ。 術後は病院にはもう用事はないからと、さっさと帰って部族の治療で癒したそうだ。 人間だったら、痛くないほう、怖くないほう、悲しくないほう、を選びがちだけれど、 そこから得られる経験の大きさってきっとやっぱり意味があることなんだって思えると堪えられる。 「神様はその人に耐えられるだけの痛みしか与えない」 そして、「誰かと自分を比べて優劣をつけることが大切なのではなくて、それはそれぞれの「個性」だ」 って聞いたことがあります。 何かしら今の自分がここにある意味。 すんなり見つからない。 だから人生って面白いんだろうね。

自分軸〜楽しいの線引きと金魚の糞〜

人間ってそんなに単純じゃない。 と、常々思っている。 なのに、すごく単純に見ようとしている人の発言は、 その物言う相手自身を、もれなく見ようという視点に欠ける。 でもって、かなり威圧的な「断定」をもって確定している気がする。 人それぞれの成長ポイントやスピードがあるから一概に言えないけれど、 成長点で「あのハードル超えた人ね」って思えるのは、超えた人しかわからない線引きだ。 明らかにものすごく頑張ってコツコツやってきた人と、ごまかしてきた人とではその言葉の端々に感じる 「物事に対する謙虚さ?誠実さ?」といいますか、リアリティーの内在性が全然違う気がする。 (自分自身を甘やかす傾向。。) 自分の手や、考えに対して、「知らない」や、「わからない」ということを自覚しているかいないか。 いつでも、「私は何も知りません」という目線でものを見る、興味を持つということと、 「そんなこともわかんないのかしら?」という目線では、学びの度合いが違う。 そういう人に限って、周りに金魚の糞的な人が群がっている気がする。 いえ、周りにいる人も自分探し(自分軸)道半ば、きっと頑張っていることなのでしょう…。多分。 「自分探し(自分軸)っ」てなんよ?って? 自分の考え、趣味、思考、etcが他人の価値観に犯されないってことなんじゃ?と、思っております。 それって、「楽しむこと」の線引きと似ている。 スキーに行くのに、スキーが嫌いな人と出かけないのと一緒だ。 自分の趣味嗜好、感情の琴線、一体自分はなんなのか?と、一つ一つ検証していく中で、 超えられるハードルを横目で見ている人と、「えい」と超えられる人の違いは、 「自分軸(大切にしなければいけない個性)」を理解した上で、弱点を超えられる人と肩を並べる方に重きを置くのか、 置かないのかなんじゃなかろうかと思う。 だからこそ、金魚の糞(俗に言うミーハー)をはべらしている人は、その状況を理解してないんじゃなかろうか? 金魚の糞の方を便利に使ってるんじゃなかろうか?と思う。(飴と鞭を使って、依存させたりね) それって「肯定」の立場に立たせて、弱点を見ないふりされてるんだろうなと。 一人じゃなんもできないのですが、基本は「一人」でも大丈夫な世界に居なければ、 超えられるものも、超えられないわけで。 弱点は最終的には強みになるのになと。 間違いを正してくれる相手=整った鏡。 白雪姫の魔法の鏡だ。 嘘偽りなく自分を見られる鏡。 周りにいる人、そして自分自身の心の鏡は、常に綺麗に磨かないといけないなと、 人のふり見て我がふり直せだな。と、思った今日この頃。

人間力(本質の見える時)

久々の友人宅に遊びに行く最中、車で事故った。 いつもながら、信号待ちをしている車になんとなくぶつかる系…。(油断しまくりです…) なぜ、止まっている車にぶつかるのでしょう…。(油断してたからとはいえ、こうなると、アホまっしぐらです…) 事故った直後は、人間ですもの。少しばかり手も震えるわけで…。 わざとぶつかった、故意にぶつかったわけじゃないのと、全くもって私の過失なので、 相手の方には本当に申し訳ないばかり…。 でもね、でもです。 こういうときこそ、「人間力」が明るみに出る時なんです。 相手方も、初めての経験で少しパニック気味。(それも、わかってる。) で、急いでいるのか?落ち着いてはいるものの、パニック中の私に畳み掛けるように質問。 要は、保険に入ってますか? 入ってないの?的な質問。 私も悪いのですが、パニック中でワタワタして返事しかねていたのですが、入ってました。 親に言われて「保険はお守り、入っておけよ。」という家訓がありますので、入っていたのも知っていたのです。 が、 いかんせん、「何保険?」という意味がわかっておりませんでした。(お恥ずかしい) で、今即答できない旨を先方に伝えると、「常識でしょ、入ってないとはどういうこと!?!?」的な畳み掛ける物言い。 要は、「あんた、車の修理代出せるわけ!?(お金あるの?!?払えなかったらどうしてくれるわけ!?)」的な意味らしい。 おいおい。今私のメンタルや行動は、起こった出来事に最高最善に対処しようとしているわけで、 悪意なんかこれっぽっちもないのです。 こういう時に、この人は相手を気遣えないんだな、って思った。(くれぐれも私が悪いんですが) 自分がもしこの反対の立場だったとして、同じ態度をとるのかしら?、と。 人間、一番パニックに陥っている時ほど「本性」が出る。 いつも「この人はいい人だ」って言われている人が、実は天変地異でパニック時にどういう人になるのか? 割り込む人、怒る人、人を押しのけて自分が良ければ良いという行動をとる人。 この行動の先に「自分(もしくは自分の身内)だけが助かれば良い」という考えがあるのじゃなかろうか? ひいては、命の瀬戸際。 自分と相手の命をかんがみて、相手の命を優先できる人って、「神様」なんじゃなかろうか?と。 起こってしまったことは覆水盆に返らずで、どうにもならないことだとわかってます。 だとしたら、お金と命、天秤にかけつつも、「とりあえず、お互いに『怪我ありませんでしたか?』が、 人として一番大切なことなんじゃなかろうか?と、すごく考えさせられました。 大変な時こそ、その人の本質が見える。 自分のメンタル修行としては、そうじゃない人と出会った時に、 なんじゃそら?とつい口に出さないことさえできれば「神様」に一歩近づけるのかと…。 (その前に、ぶつからないシステムを車に導入せねばなるまい…)

誰かが誰かのために世界を背負う必要はなくなった

映画「天気の子」を観てきた。 のっけから高校生の若かりし頃に通った代々木の予備校の横断歩道の廃墟ビルの屋上に、 この映画のテーマの鍵となる神社があったw (今どうなってんのかなぁ〜?) うぉ〜〜!懐かしい! そこかしこに、高校生の自分がオーバーラップされる。(こんな劇的なことはなかったけどw) で、この映画を見る前の予告編に出てきたセリフで、 「僕らは世界の形を決定的に変えてしまったんだ…」 が、気になって気になって、超気になってたのですが、ようやくわかってすっきりしておりますw どこまで「決定的?」なのかが、私の中でのネックだったのですが、 そこに関してはうむ。想像通りの範疇に入っておりましたw でも、その「変えた」という選択肢は、 「個人を救う」 のか? 「世界を救う」 のか?という選択の上に成り立っていた。 今までの世の中の常識だと、肩肘張って「世界を救う」ヒーローがたくさん居たけれど、 あら、もう肩肘張らず、誰かの思いを背中に、肩に背負わず、気負いなく「個人」で居て良いのね。 って思いました。 この映画では、世界を救うっていうより、一人一人の笑顔を取り戻したくて、 その対価で人柱になって青空を取り戻したけれど、誰一人としてそのことに気がつかない。 君一人がその犠牲にならなくてもいいんだよってこともあったのかもしれない。 そう考えたら、この前見たアベンジャーズも、世界を救う!とか言いつつも、家族だったり恋人だったり、 個人の方に執着していたよな〜と思った。 ちょっと前の私も、誰かのために役に立って生きたいみたいな、ちょっと人の人生も請け負います!と、 肩肘張りまくって頑張ってましたけど、 もう、それはナンセンスな時代になってきたんだろうな、と、少しばかり安心しております。 もし、究極の選択で、愛している人と、世界を天秤にかけて、核爆弾押しちゃったとしても、 「気持ちわかるぅ〜」的に誰も文句は言わないかもしれないなぁと。 (いやいや、押しちゃまずいですけどね。) それだけ大切な物ってのが、ミニマムになって、その延長線上に「世界」が見えてきているのかもしれない。 誰一人、愛したことのない人が、世界を愛することはできますか?ってね。 それにしても、IMAXシアターの画面は大きくていいね。 視界の隅から隅まで映像なので、臨場感あった。(細かいとこ観られんかったので、レンタル出たら見直しねw)
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