久々にDVDを借りて観た。 一時期は狂ったように借りまくって観ていた気がする。 でも、ある時からふと。 もしかして、パターンがあるのでは? と、気づいてから、大体その内容や筋書きが見えてきて、 大どんでん返しも以外に伏線が前に貼られているのに気づいたり、 おや?ドキュメンタリーとか、現実の方が奇なりで面白いのでは? と、映画を観る量ががくりと落ちた。 で、今回はたまたまただ券が手元にあったので、何か借りようかなと借りてみたもの。 家族とはなんぞや? の疑問符が考えの片隅にあって、いかなる話であろうか?という興味がほんのりあったから、で、観終えて。 誰と誰がどんな関係で、どうしてこのまとなりになったのか、 全員他人なの?一部は血が繋がってるの?とか、いろいろ詳細設定がわからず そこを紐解くのに少し内容への集中力が散漫になってしまったのですが。 映画って、かっこつけの部分が多すぎて、ほんまもんのおじい、おばあの話す内容の力強さとはやはり比べ物にならず。 それぞれの心情の細やかな奥行きは、時間的に説明が難しいのかな?とも思った。 家族問題を取り上げた映画は多々ありますが、今回のは「危うさ(揺らぎ)」の意味があったのかと勝手に思っております。 人と人の関係性の線引き部分。 自分が「家族」だよなと思ったところで、血が繋がっていないという事実は「家族ではない」というある種、線引きになる。 ましてや、お互いが生活を共にするということだけが「家族」の定義でもなく、じゃあ一体「なんなのか?」。 内側と外側。他人の芝生はなんとやら。 これって、「真実の愛」的に、普遍のテーマではなかろうか? それは、それぞれが「個」だから、さも相手を自分であるかのように扱えるか? ということなんだろうか? まったくクローンの同じ人間が生活を共にしたら、円満に解決することなんだろうか? その度に、マルコビッチの穴を思い出すw(結局全く内容のない話でしたがね、こちらは) 「家族」の血のつながりって、その「家族」の何かしらの「テーマ」があるように思っています。 それこそが、家族という共同体であり、見つめなければいけない自分自身の「良いところ・悪いところ」を見つめ修正し、確認するための共同体なのでは?。 子供は親に似る ということは、子供の良いところ、悪いところは、その一族が積み重ねた人格の歴史なのでは?と。 これは心の成長 = 進化!!! 円満な家族ってのがいたとしたら、相当過去の人たちが頑張ってくれたのかもしれない。 最終的に「個」であることを認識(認知)しつつ、「他」を認識(認知)することが、共同体であることには重要なんだよねきっと。 お金がないってこと = 生きていけない って、変な時代になったもんです。 お金のシステムは、一部のヒエラルキーの先端の人たちが、自動的に金儲けをするためのシステムなんですの。 今日、youtubeでそんなビデオを観てからのこの一本で、かなり脳内麻痺を起こしている今日この頃w
ディズニーはなぜ歌うのだろう? 若干自虐的なプロモビデオみたいなクリストフのシーンは、 それを物語っているのでは?W ってことは置いといて。 アナと雪の女王2を観てきました。 本当は3Dを期待していたので、今回2Dでどこまで楽しめるのかしら? と思ったのですが、 個人的にはとても驚くシンクロが多くてびっくりしました。 スピリチュアル界隈では、「水は情報を持っている」ということは囁かれていたのですが、 まさか、アナ雪でそれがクローズアップされるとは思っていませんでした。 そしてこのところ、私の目の前に現れる「ケルト」的な情報がふんだんに散りばめられていてもはや 「ケルト方面、行くしかないのでは?!」という気分。 映画の中に出てくる四大元素「火・水・風・土」。 錬金術の要素ですよね。 魔法の根元はやっぱり「自然」なのですよね。 そして、その元素をまとめる中心に、もう一つ重要な要素がある…。 それこそが、エルサ自身が持つ力(「意識(愛)」) もともと、古代文化は自然の力と共にあったし、 それが、「魔法」だった。 そして、魔法に恐れをなした人間の「恐怖(畏怖)」から分離が起こった。 あの映画の女王二人がなぜ二人なのか?も、その分離の融合という意味で重要なのかもしれない。 さらに、全然関係ないところで、映画の予告で来年?ピクサーとディズニー合作の 「onward」(日本タイトル分からず)で言っていた内容に引っかかる。 昔は魔法が当たり前だった、今は魔法を忘れてしまった人たち(エルフ)が 魔法を使ってお父さんを復活させる。みたいな話? 共通内容として、 「昔はみんな魔法が当たり前だった」 けれど 「今は忘れてしまっている」です。 持論として、量子力学的にも、今科学で解明されていない「意識」のエネルギーなるものが気になっていまして、 この辺りあながち「魔法なんじゃね?」と思っている次第。 オラフが「永遠に変わらない」ってことはどういうこと? というようなこと言ってたと思うのですが、 オラフが魔法の力が弱まっていなくなっちゃうときに 「今わかったよ。永遠に変わらないものって『愛』なんだね」 って、物質は変化してなくなっても、意識はなくならない。 ましてや、水という存在に記憶があるのならば、すべての命は生きていることになるのですよ! すごくない?! って、スピリチュアル角度で観ない人にとっては、ど〜でもいいことかもしれませんが、 そう考えても良いのかもなって思った、個人的には久々にどど〜んときた映画でした。
映画「天気の子」を観てきた。 のっけから高校生の若かりし頃に通った代々木の予備校の横断歩道の廃墟ビルの屋上に、 この映画のテーマの鍵となる神社があったw (今どうなってんのかなぁ〜?) うぉ〜〜!懐かしい! そこかしこに、高校生の自分がオーバーラップされる。(こんな劇的なことはなかったけどw) で、この映画を見る前の予告編に出てきたセリフで、 「僕らは世界の形を決定的に変えてしまったんだ…」 が、気になって気になって、超気になってたのですが、ようやくわかってすっきりしておりますw どこまで「決定的?」なのかが、私の中でのネックだったのですが、 そこに関してはうむ。想像通りの範疇に入っておりましたw でも、その「変えた」という選択肢は、 「個人を救う」 のか? 「世界を救う」 のか?という選択の上に成り立っていた。 今までの世の中の常識だと、肩肘張って「世界を救う」ヒーローがたくさん居たけれど、 あら、もう肩肘張らず、誰かの思いを背中に、肩に背負わず、気負いなく「個人」で居て良いのね。 って思いました。 この映画では、世界を救うっていうより、一人一人の笑顔を取り戻したくて、 その対価で人柱になって青空を取り戻したけれど、誰一人としてそのことに気がつかない。 君一人がその犠牲にならなくてもいいんだよってこともあったのかもしれない。 そう考えたら、この前見たアベンジャーズも、世界を救う!とか言いつつも、家族だったり恋人だったり、 個人の方に執着していたよな〜と思った。 ちょっと前の私も、誰かのために役に立って生きたいみたいな、ちょっと人の人生も請け負います!と、 肩肘張りまくって頑張ってましたけど、 もう、それはナンセンスな時代になってきたんだろうな、と、少しばかり安心しております。 もし、究極の選択で、愛している人と、世界を天秤にかけて、核爆弾押しちゃったとしても、 「気持ちわかるぅ〜」的に誰も文句は言わないかもしれないなぁと。 (いやいや、押しちゃまずいですけどね。) それだけ大切な物ってのが、ミニマムになって、その延長線上に「世界」が見えてきているのかもしれない。 誰一人、愛したことのない人が、世界を愛することはできますか?ってね。 それにしても、IMAXシアターの画面は大きくていいね。 視界の隅から隅まで映像なので、臨場感あった。(細かいとこ観られんかったので、レンタル出たら見直しねw)
ビデオ屋さんで探すのに苦労したw かなり大人向けの話だからと普通の棚を探していたら、 仮面ライダーとかウルトラマンの棚にあったw 見つからなかったはずだ。 内容はエヴァンゲリオンの使徒をゴジラにした感じのリアル版。 最初っから戦う術のないゴジラ相手に、悠長に対策委員会とか、内閣対策本部とか、 机上の空論、渦巻く政治色、前例がないとマニュアル主義では太刀打ちができないとか かなり滑稽な展開から始まる。 ゴジラが最初ずるずる這っているのに若干ショックを覚える。 だんだん進化して、例のゴジラの形態になってよかったよかった。 東京湾のアクアラインに始まり、武蔵小杉、多摩川の浅間神社とか目黒区とか、 知っている場所にゴジラが現れると親近感。 逃げ惑う人々とゴジラの距離が近いわりに、みんな焦ってないw スマホ持って写真や動画撮ってるしw にげてぇー! 話の最終展開は、大団円になっているのですが、うまくいきすぎて不完全燃焼。 個人的にはこれを契機に、全世界が一つに的な、アメリカの属国扱いが終焉。 日本魂の復活とか、本気の大団円だったら、今後の日本の有り様の希望的遠景で素晴らしかったなぁ〜。 それか、もう徹底的にゴジラ怒って誰もいなくなった的なw 人間の傲慢って、政治家の傲慢、国の傲慢の延長線であって、 本来の人間が望んでいるものではないよね。 国、政治家の存在ってとても滑稽だなと思った映画でした。