映画「天気の子」を観てきた。 のっけから高校生の若かりし頃に通った代々木の予備校の横断歩道の廃墟ビルの屋上に、 この映画のテーマの鍵となる神社があったw (今どうなってんのかなぁ〜?) うぉ〜〜!懐かしい! そこかしこに、高校生の自分がオーバーラップされる。(こんな劇的なことはなかったけどw) で、この映画を見る前の予告編に出てきたセリフで、 「僕らは世界の形を決定的に変えてしまったんだ…」 が、気になって気になって、超気になってたのですが、ようやくわかってすっきりしておりますw どこまで「決定的?」なのかが、私の中でのネックだったのですが、 そこに関してはうむ。想像通りの範疇に入っておりましたw でも、その「変えた」という選択肢は、 「個人を救う」 のか? 「世界を救う」 のか?という選択の上に成り立っていた。 今までの世の中の常識だと、肩肘張って「世界を救う」ヒーローがたくさん居たけれど、 あら、もう肩肘張らず、誰かの思いを背中に、肩に背負わず、気負いなく「個人」で居て良いのね。 って思いました。 この映画では、世界を救うっていうより、一人一人の笑顔を取り戻したくて、 その対価で人柱になって青空を取り戻したけれど、誰一人としてそのことに気がつかない。 君一人がその犠牲にならなくてもいいんだよってこともあったのかもしれない。 そう考えたら、この前見たアベンジャーズも、世界を救う!とか言いつつも、家族だったり恋人だったり、 個人の方に執着していたよな〜と思った。 ちょっと前の私も、誰かのために役に立って生きたいみたいな、ちょっと人の人生も請け負います!と、 肩肘張りまくって頑張ってましたけど、 もう、それはナンセンスな時代になってきたんだろうな、と、少しばかり安心しております。 もし、究極の選択で、愛している人と、世界を天秤にかけて、核爆弾押しちゃったとしても、 「気持ちわかるぅ〜」的に誰も文句は言わないかもしれないなぁと。 (いやいや、押しちゃまずいですけどね。) それだけ大切な物ってのが、ミニマムになって、その延長線上に「世界」が見えてきているのかもしれない。 誰一人、愛したことのない人が、世界を愛することはできますか?ってね。 それにしても、IMAXシアターの画面は大きくていいね。 視界の隅から隅まで映像なので、臨場感あった。(細かいとこ観られんかったので、レンタル出たら見直しねw)
って、攻殻機動隊の荒巻さんが訓戒みたいにいつもつぶやく言葉ですがw 今観ても褪せることのないすごい内容のアニメですね。(政治問題とかの腐敗っぷりとか今となにも変わらない) 何度となく繰り返しつい観てしまう。 よく、学校とかで教わるチームワークは まとまりの中で「輪(和)」を乱さない。 ということが重要視されるために、その個人個人の頭をどんぐりの背比べのように上から叩く。 そら〜も〜ゴンゴンと。 そして、底辺の人、もしくは、平均的な価値観でくくる。 自分の個性が潰されるんですから、苦痛でしかないわけで。 大学が美大だったので、周りの人ほとんどが個性があったが故に、いじめにあった人が多く、 飲み会でいじめの話になると花が咲いていたw とあるブログ記事で、美大系の人と工学系の人達が新商品の開発のチームを組んだ話があった。 美大系の人たちが、「こんな感じがいいよね〜」という、得意のニュアンスをもちだしたところで、 工学系の人たちは、「具体的に話して欲しい」という。 美大系の人たちはなんとなくお互い理解しつつも、実は全然違うイメージをそれぞれに持っていて、 それをお互いにすり合わせをすることで、一つの実体にしていく。 なので、アイデアは無限大だ。 工学系の人たちは、ディテールを理解しないと全体を作り上げることができないので、 木を見て森を見ずな感じとなる。 でも、無理難題を解決する力はピカイチなので、美大系のニュアンスを具体的に仕立てる力を持っている。 創造するということは、お互いの「良いところ」を尊重してすり合わせることなので、 それぞれの100%が合わさることで200%にも300%にもなる。 だから、個人個人が最高最善じゃなければいけない。 そして、自分ができなくても「この人なら…」と、思える信頼感。 依存じゃなくて、誰かを頼り、誰かに頼られる。 これこそ、スタンドプレイから生じるチームプレーだよね。 まだまだ依存感が抜けない部分は、まだ私の未熟なとこでしょうが、 頼れないじゃなくて、頼ることも大切なのだなぁと最近思い始めた今日この頃。
4月にリフォーム着手すべく動いていたものの、もじゃもじゃしていたらもう7月。 いらないウッドデッキの残骸を取り除き、足場が建ったということで、柱のペンキ塗りに行ってきました。 鬱蒼と茂っていた草も、枕木でできた謎のウッドデッキもすっかりきれいになくなって、 あんなに凸凹傾斜のある土地に、よくぞ足場を立ててくれました!と、感動しながら「やはり餅は餅屋…」と思いました。 足場があれども、落ちれば奈落w しっかりハーネスをつけて柱塗り。(そのうち慣れるとたまに忘れてましたけど) なるべく自然にをもっとうに、「柿渋」を塗る。 ちょっと加工されたものなので、人が言っていたほど臭くはなかった。 本気の柿渋は臭いらしいですが、まだ未経験。いつか…。w ビフォアアフターw 数十年の時を経て、中古が少しだけ新品の有様に…。 けれど、足場の高さと合わない部分もあり、さすがの私も女子的か弱さで「塗れないわぁ〜」と匙を投げる部分もありつつ、 なんとなく足場がないと塗れない部分は塗ってきた。 でも、しとしと雨模様の梅雨時。 雨の降る日でも塗れるけれど、気分が滅入るのでお休みした日もあったかなぁー。 そんな最中に、解体屋さんが内装の解体に入ってくれた。 天井を剥いだら立派な蜂の巣が!! 早速工務店さんのつてで、養蜂家?の方に取りに来てもらう。 本当は巣箱があったら私が飼いたいくらいですが、今はそれどころでもなく。 もって行ってもらった後も、ブンブン蜂はうろついてましたが、刺さないのでとてもかわいい蜂でした。 一番大変そうだったのは風呂場…。 解体屋さんの雄叫びがうっすら柱を塗る私の耳に…「すみません」と、つぶやく私。 それにしても、これも自分でやろうとしていたのだから、無謀だな、わたし…。 つんつるてんです。 全部自分でやろうとしていた自分の愚かさを嘆く… w 工務店さんにも 「こんな大きな物件をやるにもかかわらず、一人でやろうなんて、すごいなぁ〜(アホ?!)」 と、やんわり言われていたのですが、いざ始まるとなんとなく、 「おいおい、これ自分で全部やるのかよ…」と、うすら悲しくなってきた。 そして、解体した内装を見た時にあまりに悲しくなってきて工務店さんにパニックメールを送る…。 駆けつけてくれた工務店さんからは 「一人だったらわからないことだらけなんて、そんなこと知ってますよw 大丈夫!そのつど、きちんとケアしますよ!!」 と、力強いお言葉をかけてもらった (うぅぅぅぅぅぅえぇぇぇ〜〜〜〜〜ん。心で号泣) ただいま、窓全部二重サッシに変えて、屋根をきれいにして、壁塗装して、井戸水確保、浄化槽つけて等々、 外部のリフォーム整備を順次待ってます。 まだまだ、住むのは先の話w 次の冬が来る前に、こもれる部屋を作れるのか!?(そこを拠点にリフォームしようって魂胆) (もしくは、寒くて悲しくなるかもしれないから、春になってからになるのか!?w)
10年来の知り合いの人と、久々に会った。 久々の分だけ、会わなかった間に何があったのか話をした後、 普通の話に戻っていく時間があった。 会わなかった間分、お互いの好みや考え方は変わってきているのかもしれない。 なんてことない話が続いた頃、相手がずっとあの時間から変わらず 同じ自分を主張しているのに気づいた。 以前に、その人の人生にまつわる一件に介入したことがあり、 こじれたそれを心の片隅で気にしていた。 でも、少し前に会った時には、その人がその人自身で選んだことだから 私はきっかけに過ぎなかっただけで、そのこじれを相手に委ねたことで結論をつけた。 その人は、いつも正しいことを言っている。 けれど、誰かが自分の意見や好みと合わないからといって、 それを否定することに注力していることは、相手が変わらなければいつまでたっても否定し続けなければいけない。 あら? 前は「そうだね〜」と同意していたけれど、 今の私は「相手は変えられない」ということを理解した上で、 そこに自分の気持ちや時間やエネルギーを注力しなくていいことを知っている。 なんだか見定める方向が変わってきたなぁ〜と思った。 自分が変わるたびに、出会う人、一緒にいる人も変わってくる。 こういうのが人生の分かれ道なのかもしれない。 人は繋がっている。 会わない間にまた、その人はどう変わっているのだろうか? 変わっていく思考や考えの先で、また会えたらいいなと思った。
小難しい話をつねづね頭の中でこねくっているわたくしですが、 「成長する」ということが、出世のことなのか?何かができるようになることなのか? はたまたよく言われる、 「精神(魂)の成長」だとして、それは「痛い目」をみることで成長すると言われていますが、 何から何まで痛い目見なくてもいいんじゃないか。と。 人は一人ではないので、社会の中で色々あるわけですけれど、 その中で確固たる自己がない人だと、他人の意見に流されたり、依存したり、依存されたり それが「成長」にとって手枷足枷になる。 確固たる自己への自信って、だったらどうしたらいいのだろう。 それは「肯定される」という経験なのではないかと。 家庭という経験は、一番初めの社会経験の場だと思うのですが、親が子供の主張をのびのびと育ててくれた人と、 親の思い通りにするために(要は石橋を叩いて渡る=愛情の裏返しなのですが)子供の意思を否定した人。 どっちらが「魂の成長」なんでしょう? 修行的には「否定された子供のほう」だと思いますが、仏教の中で「悟り」の境地は「否定の意識がなくなり全てが肯定の意識に変わった状態」とか言われちゃうと、辛いことも通り越して最終的には「のびのび」な状態になるんじゃね? とか、思ってしまった。 まあ、なんでも経験なのですが、暖かい家庭と、そうでない家庭。 どこをどう通っても、「悟りの境地」が最終ミッションなら、暖かい家庭でもいいんじゃね? 意見がぶつかり合うことで、解決がもたらされるのではなくて、平行線だとすると、 まとまることで問題解決の糸口が増えるほうと、減るほうだと、解決できるほうがよりいいのではないだろうか? 要は、最終的に社会や団体や家族がまとまった時に、お互いの主張が解決されるほうがより良いはず。 意見は違っていても問題ないけれど、それが利己的ではなく、利他的になり、 それはお互いを肯定しあう、ひいては、自分自身の肯定に繋がっていくのではないだろうか? 意見が通じない、言うことがためらわれる、言ったら否定される、という団体の中で、自分を発揮するのは難しい。 やはり、団体になった時のそれぞれの人間の懐の深さ。 先日見た「アベンジャーズ」もお互い意見の食い違いはあっても、最後「地球の存亡」とかなので、 折り合いつけてたしw これからの自分の実験としては、その「安全な場」を作ることのような気がする。 違う意見。だからより良い意見になる。 自分としては、当たり前だけれど、思ったほど当たり前じゃないんだなと思う今日この頃。
旅先からの帰り道。 高速道路の大渋滞にはまった。 通常だったら30分とかからない距離を、3時間近くかかって(全部の時間からするとその3倍くらいで)帰ってきた。 最初は悠長に構えていたものの、あまりの進まなさに余裕もなくなり、車内のムードもギスギス。 ちょっとしたことでも怒りのスイッチになりかねない状況。 自分のせいでもないものに、「自分のせいなのか?」と自問自答したり、落ち込んでいた。 行き場のない怒りで、楽しかった旅行やお土産を選んで帰る気分も台無し…。 で、そういえば、カーナビが正しい道を指し示し「こっちです!」と言われるままに進んでいるときに、 同乗していた人が「こっち間違ってない?」と言ってきた。 カーナビの言われるままに進んでは来たものの、確信がないのでパニックになっていたのですが、 高速道路はすぐに元の道まで戻れないw 行きに来た道と帰りの道は景色が違うので、正しい道にきているとわかったときに、 「正しいじゃぁ〜ん!」と言い返した。 そのときに私はこう言っていた。 「間違った道に進んでいたとしても、遠回りでも帰れるけどね!」 高速道路なので、分岐点のチョイスは一瞬の閃き。 でもたどり着くところは実は同じ。 その間をどう過ごせるかというだけの事実。 片方の経過は、片方の経過の観察でしかない。 正しいけれど渋滞にはまった道と、間違っていてスムーズに通れたのに「間違った」と思った道。 瞬間の選択でこんなにも変わるし、もし反対の道を選んでいたら見方も変わったかもしれない。 正しいとか正しくないとか、選択の瞬間、今自分の選択した物事に確信を持つ。 間違うことは間違いじゃなくて、正解なのかもしれない。 そんなことを思った。 それにしても、渋滞を引き起こした人が、これだけ人様に迷惑をかけていること理解しているのかしら? 安全運転を心がけていて、こんな事故になるはずもなく…。 高速道路の便利さを不便にしないでいただきたいですわよねぇ。
この度初のエジプトに行ってきました。 いや、これがものすごく楽しかった。 マニアックな旅だったのでどうなることやらと思っていましたが、中々色んなことを考えさせられた旅でした。 で、旅の思い出話をしようとしているわけでもなく、 私はちょいちょいツアーに参加するのですが、ツアーは誰一人知り合いが居るわけではないので、(居る場合もあるけど) どんな他人と相部屋になるのか?とか、自分と相手の間合いをどう計ればいいのか?とかがネックになってきます。 それってちょっと家族と似ているかなぁと。 限りなく短い家族生活的な関係? 逃げるに逃げられない状況で、いかに楽しく、いかに問題なくを心がけて旅をする。 短いながらも不平不満はあるもので、これがもうちょっと長い旅路ならばきっと何かが勃発する?W 感じを孕んでおりました。W 仲良い人ですら「おいおいそれはないよ」とか、「それは譲れない」的なことはあっても、最終的にお互いに伝え合って問題回避をするはず。 ましてや、他人にそれを伝えることの困難さたるや…。 言うは一時の恥 言わぬは一生の恥 (これは「知りません」とか「わかりません」とかは早めに言えってやつですが) 言ってあげたほうが良いことも、いらぬお世話かなぁ〜と言わなかったことが少し心残りになったりして。 だんだん大人になると(なってるのか?)言わないで気づくまで見守ろうというスタンスに入るような気がします。 本人が気づくまで。 言ってもらったほうが楽かもしれないけれど、多分それは本人の為にならない。 だから、本当のところ、自分も誰かにそんなこと思わせてるんだろうなって思ってますW。 でも、なんでもロールプレイングゲームの主人公ばりに、大変なことも悲しいことも怒りも、全てが「面白い!・楽しい!」に繋がっていれば問題ないのかな? 旅をするごとに人と合わせるとか、他人から教わるとか、要は人間はどこいっても人間だなって思わされます。 楽しむってことが苦しむだけじゃないってことだけはわかって欲しいなって思った旅行でした。 ちなみに、この旅は過度なスケジュールでボロボロの体をいたわりながらだったからか、皆んな気を遣える素敵な方達ばかりでした。波乱万丈な面白ネタもたくさんあったし、たくさん笑った。そして、落ちるように寝たW 辛いことも、笑いに変える。 これぞ人生の醍醐味。
ミーハーとは 世の中の流行や芸能人の動静に今まで無知の人が熱中したり、影響を受け知ったかぶりの行為をする者(主に若年の女性)に対しての呼称である。通常はカタカナで「ミーハー」と表記するが、かつてはみいはあ、みいはあ族などと呼ばれた事もあった。 昭和初期に生まれた俗語であり、テレビが普及し始めた1950年代後半、大宅壮一が唱えた「一億総白痴化」とほぼ時期を同じくして用いられた。元々は低俗な趣味や流行に夢中になっている教養の低い者や、そのような人を軽蔑して言う蔑称で、特に若い女性のことを指していた。現在では男性にも使われる言葉である。最近の用法としては、「ある事象に対して(それがメディアなどで取り上げられ)世間一般で話題になってから飛びつく」という意味でのものがほとんどである。 wikipediaより引用 ミーハーの語源が「meher」(私彼女)で驚いたw いや、それはさておき。 私の知り合いだろろうが、他人だろうが、どうにも苦手な人種が、ミーハーな人々です。 ずっと、ず〜〜〜っとなんでだろう?と思ってはいたものの、掘り下げていなかったので、 ちょっと掘り下げてみようと…。 虎の威を借る狐的に、ミーハーな人は自分の価値を他人の価値で補完している人なのかなと。 だから、その虎的立場の人が何かの拍子に陥落失墜した場合、狐的ミーハーな人たちは手のひらを返したように退くんだろうね。 ということは、ミーハーであるということは、 自分は虎にはなれません宣言をしていることでもある。 「世界に一つだけの花(SMAPの歌だね)」 それぞれが違って美しいという私の持論からすると、 そこにその人がある、それだけど素晴らしいということ。 お釈迦様の教えだねw 誰かと自分を比べる必要なんかない。 自分を精一杯表現している人に優劣なんかない。 はずなのに、何故だか世界は「優劣」で成り立ってるんだよね。 お金がある人。 才能がある人。 地位の高い人。 等々 自分が満たされていれば「優劣」なんか気にならないはずなのに、現代のシステムでは「優劣」が気になるようにできている。 それは「心理操作」が行われているということ。 お金がないと不幸。(お金なくたって幸せな人はたくさんいるけどね) 才能がないと不幸。(本当はなくったって幸せなんだけどね) 地位の高い人。(地位が高くったって幸せとは限らないし) 優劣を操作することで、見えないところの誰かが儲かるシステムだから。 要は、流されやすいことで、実は不利な状況に陥っているわけ。 ミーハーの人は、状況に流されやすく、その利益のおこぼれを享受するために打算的にもなる。 利用価値がある虎に、近寄る打算で近寄る狐。 怖いわぁ〜。。。。 その人の持っている「弱さ」と向き合うことが、本当は力になるんじゃないかと。 そんな弱さも、神様的な人たちはきっと 「幼き子よ、かわいいねぇ〜」 で済まされてしまうことなんでしょうけど、 意外にこれ害悪の種なんじゃないかと思います。 できる限り少ない方が美しい。。。 人と会う時に、私は相手の肩書きや、才能、お金の無い状況をシミュレーションします。 (シミュレーションするまでもなく、面白いか面白く無いなんですけどねw) 相手から何にもなくなった時に、この人に興味が持てるのか? 苦労をした方の言葉は、本当に慈愛に満ちいることが多い気がしますが、 それは誰かを何かの価値基準で見るのではなくて、人間として見られる目があるからかもしれません。 くれぐれも、ぶれることなく筋の通った自分で居たいと思います。 ミーハーの人と仲良くするのは疲れる(←!)ので、遠巻きにさせていただきます。
ジャニーズグループの嵐が2020年末で活動休止を本日宣言した。 大相撲最終日、千秋楽の玉鷲が優勝のニュース速報直後だったのでつい笑ってしまった。。。 で、なんだ ? とおもって、ググってみました。 2017年6月、グループのリーダー大野さんの「何事にも縛られず自由な生活をしたい」という話がきっかけらしい。 そこで、ホロスコープをみてみると、2017年に入った初旬に、N月に対して天王星がスクエアを取り始め、2020年で抜ける。 それ以外でも天王星が、他の星々を刺激している。 天王星が牡牛座に入り、「価値」や「豊かさ」の定義が変わり、牡羊座天王星時代に「自分とは?」と追求したものを糧に、「価値観」の表現や書き換えが7年に渡って行われる。 すごいタイミングとマッチしていて驚いた! 大野さん自体が繊細な方なので、多分時代の雰囲気やエネルギーを感じていたのかもしれないことは、さすが芸能人!と思わされました。 色んな方がこの時代の天王星の流れを書いているので、ぜひ一読してみるのおすすめです。 で、これからやらなければいけないこと。 牡牛座=豊かさ、繁栄、安定、五感、芸術、審美眼 という意味合いがあるのですが、天王星が来ることで、今までの価値観を超えて新しい価値観が出現します。 今までの価値観にとらわれず、自分自身で新しい価値観・幸福の基準を作っていくことになる。(もしくは、社会的にもドンガラガッシャン的な出来事があるかもなので要注意w) 自分にとって 何が楽しいのか? 何が豊かなのか? 生きることを楽しむために、これまでのスキルを査証して、再構築する。 できない、やらない、じゃなくて、やっちゃうことができる時代(流れ)なのです。 個人的には、大野さんは2025年あたり、何かやってくれるんじゃないかと睨んでいますw それぞれの「自分の新しい幸せや楽しみを表現」が、嵐でどんな風に科学反応するのでしょうね?!
よく 「言葉には魂が宿る」 と言う意味で言霊という言葉が使われていますが、 それを意識せずに、言葉を使う人が多い気がします。 言葉を丁寧に話す人、投げやりに話す人…。 言葉を発する時に、ポジティブなことを言うのか、ネガティブなことを言うのか、 自分のことを思っているのか、いないのか、 相手のことを思っているのか、いないのか。。。 最近市原悦子さん(女優)が亡くなったことで、追悼番組が良く放送されていたのですが、 日本昔話というアニメの声優をやっていた時の声色の話をしていました。 司会者:「ものすごい声色が色々ありますが、あれはどのように設定しているのでしょうか?」 市原:「自分では思いもよらないキャラクターの時もありますが、 身の回りのいろんな人をイメージしてみたり、 そのキャラクター(物)に思いを馳せてみると、自然にその思いの声色が出てくるのです」 音には、言葉の意味だけではなく、感情や色々な情報が乗るように思います。 小さいのか、大きいのか、弱々しいのか、剛力なのか、古いのか、新しいのか、痩せか、太っちょか、女性なのか、男性なのか等々。 自分で言うのもなんですが、楽器を習っていたので俗に言う「耳がいい」方で、 音の状況(ニュアンス)に対してものすごく敏感です。 その昔声優になりたいと思っていた時期もあり、そのキャラクターのイメージに合わない声優さんがいると、残念な気持ちになったり、うまい役者さんがいると他の役の時にはどんな声になるんだろう!と楽しみにしたものです。 それは、落語のそれとも似ているかもしれません。 音だけで、その人物、キャラクター、性格、体格等、私たちにイメージを伝えなければいけません。 音楽の調べとも似ている気がします。音の表現とは、本当にすごいと思います。 そして、無意識に使う自身の言葉は、言い続けると 「定着」 するように思います。 それは潜在意識?とでも言うのでしょうか。。。 一言、嘘でも 「やれる!」 と言える人と、 「私は絶対できない」という人。 「私なりに頑張っている。(けれど、それ以上はできない)」みたいな。 やれること、やれないことは色々な制限があるので、一概に「絶対できる!」とは言えませんが、 ほんのちょっとしたことに制限を加える人は、その言葉の威力=心(思考)の威力に無頓着なのではないかと思います。 使う言葉を意識すると、自分の傾向と対策にも意識が向くのではないでしょうか? 変わりたいと思っている人ならなおさら気にしてみるといいのではないでしょうか? (プライドの高い人はネガティブ傾向が多い気もするw プライドなんざ裏のドブに捨てちまいな!W) あと、必要以上にポジティブなこと言う人も、要注意! ネガティブに蓋してます。 そして怖いから、ちらちら見えてるから、その祟り神様! wwwww チャンチャン。