理想の夢が見つかったけれども…

ただいま「アナスタシア」シリーズなる本を読んでいます。 もっか今出版されている全7巻の5巻めに突入中。 なぜこの本にたどり着いたかと言いますと、 物件購入した土地が下水がなく、浄化槽なるものをつけなくてはならず、 仕組みを見れば見るほど どうしたらもっと自然に優しいものがあるのだろう? と探していたところ、工務店さんが教えてくれた細菌を使った最新の浄化システムがあったので、そのホームページを読み込んでいたところ、謎の文字ロシアのアナスタシアが出てきたのです。 なんじゃ? ロシアのアナスタシアって ??? と、ネットの海をダイブしたところ、出てきました。 本。 アナスタシアが語ることを、アナスタシアと出会ったロシアのおじさまが書いています。 一応ノンフィクションなのに、フィクション?と見まごう内容でありつつ、 今の今まで「不自然だよなこの世の中」と思っていたことに確信が持てるようになった。 話せば長いし、まだ本も読んでいる最中の道の途中。。。。w にて、もうちょっと読み進めてからおすすめしたいのですが。 とりあえず本当に私としては、目から鱗の、ハウツー本でした。 スピリチュアルの勉強をしていた時にも、そのサイキックな先生がロシアで受けたサイキックの学校の話だったり、ロシアの科学研究が紐解くかなりキテレツなトンデモ話も聞いていたので、あながちこりゃまじかもなぁと興味津々なロシアの素敵話が綴られます。 その中でも、「一族の土地」なるものがあるのですが、 現代はお金のシステムの中で暮らしているのですが、どんどん生活の中での便利は増えているものの、一つも心が豊かじゃないのはなんでだろう?と思いますよね。 父や母が子供のために木を植え、家を立て、野菜を育てるための1ha(ヘクタール)の土地を丁寧に育めば、そこは、生きることに不安のない一族のシェルターになる。 それが、都会にいる一つ一つの家族に起これば、それは、飢えることで誰かを傷つけることも、奪うこともない平和のサイクルが始まる。的な内容。 といって、この下りはこんな単純な言い回しではすべてが説明できるはずもなく。 少しなりとも興味がある方は読んでみてほしいです。 夢を描くこと、願うこと。それは、そこにそのものが存在する創造の力になる。 そこに核兵器があるのも、原子力発電所があるのも、そこに誰かが「あれ!」と願ったからだ。 願うことの力は小さいけれど、それが集まれば大きな願いとなる。 そんな中で、自分がこれからどう生きていくかの? と、考えた時。 確かに不安のない場所、生きるのに、食べるのに、困らない場所があること がとても重要なのだとすると、まずは自分が震源地として 「一族の土地」の小さな願いになればいいのでは? と、思ったのでした。 お金がないとできない。 と、本の中でもなんども本の著者、メグレさん(ロシアのおじさん)が否定する(このおじさんは否定しまくる現実派)のですが、要は時間と手間を惜しまなければ、そしてそれがメンテナンスを必要としない自然の営みの中のサイクルが正しく機能すれば、より一層強く楽に、回っていくことに気づいていくのです。 私たちが自然の営みをぶった切ってきたこと、自然のサイクルを破壊してきたことでいろんなマイナス面を生んできたことを理解しなければ、何も始まらない。 確かに、ほっといてもうまいこと自然が回っていれば、食べられそうなものは生えるのです。 現に、私はニラが好きで、「植えたらごっそり食べられる」と目論んでプランターで植えたものの、何かの加減が悪く、硬い葉っぱで食べられたものではなく、そのまま食べずにほっておいたところ、花が咲き、種ができて、それから何年もベランダの絶妙な、水の流れる先に溜まった土やコンクリートの隙間や、隣のプランターでものすごく美味しそうな葉っぱを生やしておりますw 私が植えた時よりもそれはそれは、美味しそうです。 自然のサイクルの中で、私たちが寄り添って、人と人が寄り添って生きられるところ。 こんな夢を今歩き始めましたが、まだちょっとメグレのおじさま気分が抜けず。 お金大丈夫かなぁ〜とか、ダメだったらどうしよう…とか、結構ネガティブに振り回されますが、 周りの人たちも巻き込みつつ。 夢実現をふらふらと漂っております。 アナスタシアありがとう。(まだ読んでる途中w)

ゴミ問題

中古物件を掃除しているのですが、これがなかなか厄介。 ゴミを出すこと自体を推奨していない地域なので、粗大ゴミをドンジャン捨てていたり、燃えるゴミですといってなんでも燃やしてしまえる都心とは違い、結構出せるものも限られています。 極力ゴミを出さない生活をと考えると、今の世の中の矛盾が出てきます。 生ゴミだって庭に埋めていただろうし、糞尿問題も「肥溜め」があって、再利用されていた。 テレビでスターバックスがストローを無くす!と宣言しているのを見た。 だからと言って、すべてのプラスチックから撤退したわけでもなく(売名行為?)、消費社会の中で便利という名の下に私たちが地球を汚す手伝いをしているとしか思えない。 コンビニで売っているペットボトルも然り。 いつも思う。 ペットボトルの中身、量り売りにしてくれないかなぁ… パッケージも然り。 中身だけでいいんだけどね なんでこんなにパッケージが多いんだろう…。(便利だし、綺麗だしね) 一週間でゴミ箱が満杯になるそのほとんどが、何かを包んでいたものだ。 昔は、お母さんたちが買い物かごを片手に八百屋さんや魚屋さんで買ったものは新聞紙とか紙袋に包んでくれてた気がします。 ビニールゴミが増えたのかしら、やっぱり。 私は犬の散歩の時にビニール袋を使うのでカバンの中にいつも忍ばせているのですが、 買い物の時に「袋いりません!」と便利に使えています。 最近のビニール袋はうす〜くなってすぐ破れてしまうのですが、昔の丈夫なビニール袋は何度でも使えるので折りたたんでカバンに入れておくのにぴったりです。 下手におしゃれな買い物袋だとかさばるのでとっても便利。 カバンに一つ、使用済みビニール袋でございます。 ゴミ問題は、スーパーも、コンビニもデパートもなくなって、便利なファーストフードもなくなって、 「便利」を捨てれば解決すること なんですけどねw (某ネット熱帯雨林とかもw)

納得の答え「家族とは」

またも、テレビ話ですがw 内田春菊さんが、自身が人工肛門になったその後のいろいろを話していた。 もとより、自身の生い立ちがかなり過激な方なので(DVとか)、 漫画を読むたびに「良いな」と「おいおい」が交互に顔を出す感じの内容だったのを覚えている。 で、そのお子様たちがインタビューにでてらしたのですが、 これがまた素晴らしいお子様たち。 春菊さんをみんな「かあちゃん」と呼んでいるのですが、 そのかあちゃんの色々な体験談を共有し、さらには自分達でその答えを考え消化している感じがした。 春菊さんちの家族像。 家は「エネルギーを蓄えるところ」 「何かあった時に逃げられるところ」 と言っていた。 そして、家族の中で守っていること ・謝る ・感謝する ・声を掛け合う があるそうです。 これ、当たり前で当たり前じゃない。 私の知り合いでもDV経験者はいるのですが、すごく自分自身を模索している方が多かった。 不思議なもので、DV経験者は同じような家族を形成することが多い。 でも、その負の連鎖を断ち切れた方達は、とても素晴らしい関係の家族を作られている。 もし、自分の家族の誰かを憎んだり、殺意を抱くようなことがあるのであれば、それはもしかしたら自分自身のものだけではない、ずっと面々と繋がれてきた「遺伝」なのではないだろうか? 意図して自分の中でその答えや回答に辿り着かなければ、問題は次の世代に引き継がれるのでは? 生きるって、苦しんでつかむこともあるけど、楽しむってことも残っているんだと思う。 当たり前の「家族」って、リーダーが必要だし、そのリーダーが理屈をわかってないと成り立たないのね。 そして、家族の中でも「相性」というものもあるから、家族の中で「分け隔てがある」と、思うのは、それぞれ「ジャンル」や「担当」があるのよね。と、春菊さんは言っていた。 だから、「あの内容の時はこの子」。 「この内容の時はあの子」って、分担があるから、分け隔てなく愛するとか思わなくって良い。 それぞれに得意分野があるから。って。 そらそうと、病気をした春菊さんがはまって(病気の前から?)読んでいたのが「遺伝」関連の本だそうな。 私も人間ってなんぞや?って思ってからいろんな方面を紐といていった中に「遺伝」ありました。 興味を持って調べていくと、いろんなところで繋がってて面白いですね。

電気の話1(WAVの話)

何かと身の回りで電気を使わないものはない。 思った以上に電気に頼っている昨今。 でも、意外にその詳細を分かってなかった!と、痛感中。 V(ボルト)=電圧(電気を押し出す力) A(アンペア)=電流(電気の流れる量) W(ワット)=電力(実際に消費される電気エネルギー) で、ナンノコッチャ?です 普段使ってる電気家電なぞ気にしたことなかった…。 というのも、電気をお家に引き込む際にA(アンペア)を指定しなければならず、 電気配線計画なるものを考えなければならなくなったからです。 消費電力1000Wのドライヤーを100Vの電圧で使う場合、A(アンペア)は… 1000(W)÷100(V)=10(A) ドライヤーと他の電気機器を使う時に、全体で10Aプラス他の電気機器の使うアンペアがプラスされる。でも、それだけじゃなくて、電力は100%の状態で使えるわけじゃなくて、VA(力率)というその電力を有効に使えるかという値を負荷して正式なワット数となる…。 エネルギー問題で、発電とか太陽光とか気にはなっているものの、そんな根本的なことすら分かってなかった…。 ちなみによく請求書に書いてある「使用電力量」は W×H(時間)=Wh(消費電力量) で、100Wの家電を1時間使用すれば、100W×1h=100Wh 10時間使用すれば100W×10h=1000Wh=1kWh となるw まだまだあるよ。 直流だの交流だの、ヘルツだの。 直流は要はずっとプラス方向に流れ続ける電流で、交流はプラスとマイナスを行ったり来たりする電流(どんなの?)だとか。 なんのことだ? で、突き詰めるとそこから始まる電気家電w 理屈を知らないとどうにも腑に落ちない。 困ったものです。 生活に深く結びついておりながら、全然知らなかったよ…色々。 電気=電子の流れ 導体(電気を通し易い物質) 絶縁体(電気を通しにくい物質) 1Aの電流は、1÷電荷(1.6×10-19Q(クローン))だそうだ。 室内の電気配線を考えようと思っていたら、ここから始まる私W 先は長いW

トイレ問題

これから住む所は、とても水の綺麗な所です。 ですが、下水道とかが通っていない所なので、 漏れなく合併浄化槽なるものを取り付けると思われるのですが、 自分達が生きる上で出てしまう汚水の処理って、都会にいると下水で処理してくれるから何気なく流して終わりにしてしまっている問題なんですが、意外に深刻だなと思いました。 水を綺麗にしてくれているのは誰? そう。「自然です」。 合併浄化槽とはいえ、その先は自分たちの水に影響を与えるのです。 (ちなみに浄化槽とは微生物で強制的に水を綺麗にして水を流すシステム) 自然の浄化作用を超えて汚水を流せば、その汚水を自分が飲むことになるのです。 ハワイに行った時に、飛行機の中で「ジャングル水」なるものが機内で出てきました。 一応熱殺菌はされていたようですが、その水は「雨水」だと書いてありました。 都会の雨水、飲めます? 飲めませんよね。 どんどん私たちは自分の手で飲めない水を増やしているのです。 おお怖い。 トイレ問題。 これからどうなることやらですが、自然に優しい暮らしの幕開けということは間違いないですw

八ヶ岳計画始動…

どこをどうしてここを選んだのか?W 数年前からずっと「八ヶ岳に住みたい宣言」はしていたものの、本当にこんなことになるなんて…w 現地であれこれ探索せずに、たまたまネットでたどり着いた物件。(ずっと探してはいたけれど) 物件の場所をググって物件の連絡をせぬままに勝手に行ってまずは「どんな物件かしら?」と偵察に。 うむむ。なかなかでかい物件。 一人で住むには明らかにでかい。 でも、これから私がやろうとしている「新しい関係性のある集団」を作り、集めるには凄くいい感じ。 2018年5月頃に行ったハワイで、ものすごく自分の中を揺さぶられ、 もう野となれ山となれと自分自身であることの難しさと開放感を味わった。 もうそんな感じ。(ハワイの話は知ってる人しか話さないよ!w) で、物件のリフォームご指南をいただいている築事務所のTさん&Kさんを連れて、 「本当にここ大丈夫かしら?」 と不動産屋さんに同行してもらい、「いけんじゃね?」的なことを言ってもらう。 かといって、全財産はたく様なクレイジーな案件…。(建物の骨組み以外全部使えない。苦笑WWWW) あたしのチキンなハートが「こえぇ〜〜〜〜」と、その直後に近所に出たお一人様用素敵お住まいに揺らいだW でもね、迷ったときの選択方法。 「迷った時はね、どっちが正しいかなんて考えちゃダメ。 どっちが楽しいかで決めなさい。」 by 漫画「宇宙兄弟」のシャロン博士の名言 そう。 漫画の名言に従った私W でも、色々それからあって、物件の値段交渉だとかをしていたらあっという間に1ヶ月。 10月の大安吉日に契約を交わし、無事物件取得と相成りました。 物件のオーナーから。 「この物件は結婚成立した縁起のいい物件ですよ!」 とのお墨付きもいただいたので? 元気百倍です! と、言いたいところですけど、まだ内心不安MAXですw これから、ライフラインをどうするのか?とか、とりあえず住めるまでの道のりを、 自分共々お楽しみいただければと思っております。。。。。ふぅ〜=3 w

罰ゲームは、ハッピーゲーム?

何かをしくじったときに「罰ゲーム」をすることがある。 たまたま見ていたテレビの情報でふと気づく変なテーマが今回はこの「罰ゲーム」。 ある人にとっては「歌うこと」が苦手で、それは罰ゲームになりうるけど、歌が得意な人にとっては楽しい出来事でしかない。 罰ゲームはその人にとって苦痛、苦手なことが対象になる。 そこで、自分の苦手は何だろう?と考えてみた。 よく、肉体的な痛みとして、電気ショックとか、デコピンとかそいうのは確かに苦手だけれど、これは誰しもが苦手なこと。 万人にとっての苦痛は罰じゃない、ただの苦痛。(他人の不幸は蜜の味的な…) そんなこんなで、私にとっての罰ゲームはただじっとだまって座っていることかもしれない。 なんにもしないこと。 でも、これは周りの人が楽しめないし、自分とって苦痛だけど楽チンですww(一生って言われたら怒るけどね) 巷の「罰ゲーム」は当人の「困ったな、恥ずかしい、いやだなぁ」を周りの人が楽しむという要素もある。 そんなこんなで、人様が苦手なことが、意外に苦手じゃないことに気づいた。w でも「罰ゲーム」として、怒鳴られ続けるとか、おやつ抜きとか、いろいろ考えてはみても、私にとっての「苦痛」はとても原初的な誰もが「苦痛」と感じることなので、周りの人が「いじめ」的によってたかっていじめる内容のことになる。(他人の不幸は…的) よく人付き合いが苦手、人前で話すことが苦手、歌うことが苦手、絵を描くことが苦手、とか、「苦手」は、もしや、「上手じゃない」ということが根底にあるのでは!? おや?! そして、克服ができそうな物事には、喜びや、笑いがくっついてくる!? 本当の罰ゲームって、「できるようになる」ことなんじゃない? 罰ゲームは「克服ゲーム」だとしたら、とてもハッピーなんじゃない?

シンクロニシティとつながり

よく知り合いと妙なところでばったり会ったり、電話をしようとしたタイミングでかかってきたり、 メールを送った直後にメールをもらったり(同時に送りあってたり)、こういうことがよくある。 とはいえ、それは自分が気になっている人に限りますが。 一番わかりやすいところで、両親や兄弟姉妹などもありますよね。 お昼にカレー食べて、帰ってきたらカレーとか、お昼に餃子を食べたら、帰ってきたら餃子とかw そんなこんなで、最近気になっている量子力学で「量子もつれ」という事象があります。 量子世界では、それぞれの粒子で状態が重なり合うだけでなく、複数の粒子がセットで状態の重なりをつくることがある。このような連携をいう。もつれ合いが離れた粒子の間で保たれると、量子力学の特徴である非局所性が現れる。量子情報科学では重要な役割を果たす。 なんのことやら?ですよね。 いわゆる、通常セットであるべき電子が別々になり、すご〜〜〜く何光年も離れていても、こちらで「えい!」と動けば向こうの電子も同じタイミングで「えい!」と同じ動きをするということらしい。 で、私が勝手に思っていることなのですが、誰かと深く知り合いになるということは、このセットの量子の片方をお互いに持ち合って、こちらで「お〜い!」ってこの量子を動かすと向こうも知らずに「お〜い!」って感じになるんじゃなかろうか?と。w これ、テレパシーやんW それに気づいてから特に気になっていることは、 つながりたくない感情や状況を持ち合わせている人に全然興味がなくなったこと。 昔は「この人のこの状況をどうにかしてあげたい…」とか思って奮闘したのですが、 えてしてその人の改善できない状況を私の中に引き込むことにもなる。 明らかに改善の余地のある人(前向き、ポジティブ)で、自分同様に解決できる人ならばどんどん邁進できる! 楽しいことや興味もしかり。 同じ状況で止まるのではなくて、方向性は一緒ながら、多様性を共有する関係? まだまだ未知の分野の量子ですが、その可能性は本当に気になっている。 追伸:「マヨナラ粒子」とか、「ヒッグス粒子」とか、最新の量子物理学が今とても面白い!

駅ピアノ

たまたま「駅ピアノ」という番組を見た。 駅の通りすがりの人が誰でも弾いて良いというピアノがある駅で、そのピアノを弾く人たちを映像にしたものだ。 NYだったり、アムステルダムだったり、フランスだったり、今日本でも増え始めているのかな? 小さい頃習い事で習った人、辛い境遇の中で覚えたピアノが今の人生の生きる糧になっている人、人とのコミュニケーションのために弾いている人、それを仕事にしている本物のミュージシャン。 様々な通りすがりの人たちがピアノを弾いていく。 どういうきっかけで音楽に触れ合ったのかはいろいろあるのでしょうが、何気なく「弾きたいな」と、何気なく「言葉にはできない思いを吐き出したい」と、表現できるツールがあるということは素晴らしいと思った。 誰かに評価されることでその音楽は成り立っているものではない。 自分自身のための音楽だ。 でも、その音色から受け取る感情を誰かが通りすがりに耳にして、何かしらの余韻や感情を持ち帰る。 表現をするということは、本当は当たり前に手元にあって良いはずなのに、日本では「Special感」が否めない。 下手だから。 上手に弾けないから 恥ずかしい だから、特別な人しか表現は許されていない…? いえいえ。手元にあるそのツールが、本当に素晴らしいものだということ。 下手だろうが拙かろうか、音楽というツールに乗せて自分というものがどういう人であるのかを表現し伝えることができる。 料理もしかり、芸術もしかり。 表現というツールに屬するもので、「下手」とか「恥ずかしい」は皆無だ。 それに気づくことで、自分を閉じ込めなくて良いことになる。 そうすると、不思議に誰かの表現にも気づくことができる。 狭い世界から、広い世界へ。 なんと豊かなんでしょう。 と、その番組をみて、涙があふれたのでした。てへ。

自転車のブレーキが気になってたまらない

ママチャリに多いのですが、自転車に乗ってる時にブレーキを握っていない人が多い。 子供を後ろに乗っけてすっごいスピードで走っているにも関わらず、ブレーキ握ってない!!! 曲がり角も一時停止なしにギュン!と回っている。 あぶね〜! そんなこんなで、気になっていつも自転車に乗ってる人の手元を見てしまう。 以外に男性はブレーキを握っている人が多い。 自分もそうですが、自動車に乗るであろう方達は握っている率が高い。 これはもしや「自転車に乗っている人が危ないものに乗っている自覚がない!?」のではなかろうか? それなのに、電動自転車とはもうすでに免許持ってない人に二輪車状態…。 責任感を持たせるにはやっぱり自転車も免許制度があればいいのに…。 ちなみに、自動車教習で教わったことで、 人が歩く速度は時速5〜10km、自転車の速度は20〜30km。 明らかに人間より早いし、自動車の低速のスピード。。。。 やっぱり危ないよね。
en_USEnglish
ja日本語 en_USEnglish