目標があったとする。 それが個人的なことなのか、グループ単位でのことなのか。 個人的なことでの目標は、いかに自分の熱(勢い)を減らすことなく目標に向かって注力するかがネックになってくる。 グループ単位での目標になると、そのグループ内での方向性への熱量が維持されることがネックになってくる。 そんなこんなで、同じ目標を持つグループがあったので入ってみたら、なんとも「みんなで」という言葉が飛び交い、果ては「どこへ?」という迷走を感じた。 リーダーが居ると、その人に依存する人たちが集合してくる。良いのか?それで。 誰もが「きっとこの人の言うことは正しいから、従っていればいいんだろうな」ぐらいの心地で動くだろう。 でも、仕事のプロジェクトだと考えると、誰かが正しいことを言っても、「最終的に部長がジャッジメントだから、私たちが良いと思っても叶わない…」と、最終ジャッジを放棄する話になる。(責任を負いたくないという問題点も含有する) 先頭に立つ人はある意味熱(目的)の震源地だ。 震源地のリーダーがまず話の火種を付け、その周りにいる誰もがリーダになりうる存在だったら、かなりクオリティーの高い仕事ができる。 今のアメリカ大統領は良い意味でも悪い意味でも「震源地だ」。 良い意味では、「この人やばいよね」と、周りの人たちが団結して「NO」を言える状態ができている。今、これに気づかないでのほほんとしていたらやばいと思う。 悪い意味では「愛国心って素晴らしい。自分たちだけが勝っていれば問題ない。」って思う人たちが多い場合、そこには平和はない。 世界の岐路の選択。 それぐらいの意味があるように思う。 日本がそのアメリカに陰ながら(もうすでにかなりの人がアメリカへの属国ぶりを知ってはいるものの)支配され、私たち日本人が持つ「和」の心を失いつつあると思っている。 日本の震源地、これで良いのか? これ、言い出すと私かなり口が悪くなります。w 美しい日本魂。 ああ、勝海舟とか坂本龍馬とか、良い人は殺されちゃうしなぁ〜w 正しいと思う方へ、美しいと思う方へ、愛ある方へ舵取りしたいものです。 やっぱり物事の中心になる人は居ないとダメなんでしょうね。。。
人間観察に最近(ずっと前から?)自信有りのワタクシ。 昔から、初めましての人から感じる”人となりの分析力”があったような気がします。 「ああ、この人こんな感じ」 という感覚。 それはどの分野でもあるのですが、以前大学の頃演劇サークルに居たのですが、 演技をするということに内在する「真実」の表現。 泣いている演技で、ただ泣けば良いということじゃなくて、 その話の中でその役柄の人が感じている「泣く」とシンクロしていることに意味がある。 そこには「想像力」が必要だと思います。 映画も好きで、歌舞伎も好きで、バレエも好きで、美術も好きで、色んなことが好きで…。 それをただ観るのではなく、その映画のその人、その歌舞伎の踊りのうまさ、 バレエの技術と精神性とか、美術作品の技術とその人となりの持つ審美眼の根底。 全ての中に、創造性・想像力を通した表現力が内在していると思います。 で、たまたま見ていたテレビのインタビューで、役者さんが役柄に取り組む姿勢から感じる 「創造性」や「感じる」という行為そのものを理解しているかどうかが気になった。 私の「良いな」という中心核には、もうその人の肩書き、仕事の役割を超えて 人としての創造性や広がりを感じる。 その創造性を理解している人の安心感は、言葉にしなくても感じ取る増幅性がある。 楽しいことが二乗で増えていく。 その逆で、想像力のない人の言葉や行動に「何故?なんなんだ?!」も半端なく理解に苦しむ。 それは、他人が感じていることを自分のことのように「想像する・感じ取る」ことの欠落があるからだ。 話をするときに、自分がこういったら、相手はどう返してくるだろう? そこには想像力がある。 帰ってきた言葉に対してのキャパの大きさもある。 俗に言う「アドリブ」に近いかもしれない。 どんな言葉が帰ってきても対応できる強さは、知識と経験と想像力なのかもしれない。 自分が今まで培ってきたその力が、今すごく財産だと思うし、 この嗅覚で楽しい人を探し出す能力は、自分の宝だと思う。 想像力の源は「興味」。 想像してご覧! その力があったら、戦争なんて起きないから…。 Imagine
半球の偏りをまず紐解いたところで、つぎは「両親問題」。 父親問題は「土星」で見るのですが、土星が逆行・土星から他の天体へのハードアスペクトがあることで、 父親の不在だったり、機能不全がわかる。 私の場合は逆行ではないけれど、土星から海王星へのオポジションがある。 海王星はクリエイティブの星だけれど、ハードアスペクトがあることで、 「置き去りにされた感」が強調されるらしい。 私としては理想の父が居ないみたいな、暖簾に腕押しみたいな力なさを感じました。 ノード軸は母親問題と関連付けられるのですが、2度半が対象だとほぼない。 けれど、オーブを広め(7度)にみると実は月がノードにのっかってますw 両親軸(4ハウス10ハウス軸・MCIC軸)には、どかりと太陽が1度オーブで乗っている。 ・4ハウスの海王星が、10ハウスの土星とオポジション。 ・4ハウスの支配星(冥王星・火星)で火星は10ハウスに在住しつつ10ハウスの支配星(金星)とコンジャクション。 ・太陽が両親軸とコンジャクションということは、その後の個と人間関係にスクエアで影響があるとな…。こわ。 ・冥王星が金星・火星のコンジャクションにスクエアなのも、重たい。 冥王星と月とのハードアスペクトもネイタルにはないものの、母親のホロスコープを乗っけると 月にどっかりコンジャクションで乗ってたりしますw この関係は、溺愛or支配的傾向があるので、操り人生を余儀なくされます。 抗うの難しそうです。 冥王星はMCにトラインで、逆に何か応援してくれている感がありますが、どうなのやら? 実際のところ、のびのび自分の思ったことをやれていたか?というと、そうでもなかったw 習い事も、バレエをやりたかったのに「元気だからこれ以上元気になっちゃ困る」 とかでヴァイオリンを習わされました。 (まあ、これはこれでありがたいのですが、私の意思では明らかにない…) なので、両親軸になんらかの問題はあるような気はしますが、 思っていたよりは大丈夫な気がしますwW 頑張ったね私。。。(これからだよわたし。)
自分のホロスコープを一つ一つ解読しつつ、メモとして残そうと思います。 そこでまず心理占星術を解読。 心理占星術は、通常のホロスコープ解析と違って、 心理状況の緊張(天体やハウスの緊張)を見ることで、 問題の背景を推理するホロスコープです。 まずはじめに「半球の偏り」と「ノード軸(両親問題)」によって、 心理的偏り(エネルギーの偏り)を分析していきます。 「東西」と「北南」で、天体の偏りを見るのですが、 私の場合「東=6」「西=4」、「北=10」「南=0」!?!?! 逆行の天体は向かいの半球に反映されてしまうので、なんと北に全てが!!! 北の偏りは… 「安全な家庭感(親)が希薄と予想される」とな…w 周囲の言いなりになり、利用され犠牲になりやすい傾向とな…(ああああぁぁあぁぁぁああ…涙) 何が?どこが?と探りつつ、ある種特殊な家庭環境と言われればそんな感じ。 (戦時中を潜り抜けた両親なので、戦争の中で両親自体も安心な家族からは疎遠だった気がします) ギャラリーやってた時も、ボロボロになるまで奉仕的な無給無休仕事をやっていた… この偏りに対してのセラピーフローは。。。 安心感のある家庭の感覚の確立 自分で作れとw これできたら私的には最強な気がしますw [ 太陽の燃料・月の欲求 ] というのは、「太陽の在住サイン」特有のエネルギーを、月星座の欲求充足プロセスに組み込む作業で、 この両方を混ぜたエネルギーが、私たちの生存と欲求充足のために働く。 太陽が燃料で、月が機能を表す。 でも、実際、サインにもセットにしたら使いやすいセット、使いづらいセットがある。 パーっと明るいサインのエネルギーを、ドローンとした後ろ向きなサインが使おうとすると少しエネルギー半減w で、私の場合は、太陽「牡牛」月「蟹」 牡牛座(太陽)=建設し維持するエネルギー(理想主義的なサインw) 理想主義的なサインで、現状を維持する欲求が強すぎると変化のタイミングで戸惑ったり抵抗があるとな。 蟹座(月)=情緒的安定を得る欲求 この二つをミックスすると、こうしたいんです!的な理想郷の持続で心の安定的な?w 自分のお気に入りの空間、そこで織り成される安心感だと!? その昔、ギャラリーカフェやってた時、 自分の素敵空間に集うお客様と、楽しく過ごしていたあの時間がよぎりましたw 嫌いじゃ無いのねやっぱりW。 太陽のエネルギーと月の欲求のセットは、 サイン同士の組み合わせで使い方が変わってくるからまた面白い。 そしてさらに「アセンダント」のエネルギーが加わることで複雑な個性となる。 私の場合は「乙女座」。 正確で洞察力が豊かでありたい欲求 乙女座自体が細やかで事務的なきちんとさん、分析好き、 批判的とか「自分の能力がどれだけ人の役に立てるか」なので、 多分、理想的な場を整えて安心を得るために、 自分の分析的な能力を使いたいって感じなんでしょうか? まだ私のホロスコープ分析力だと自分の都合のいい方に読んでいるかもしれませんw 自分には甘いので、自分のホロスコープを読むのは以外に難しいですよね。。。
ビデオ屋さんで探すのに苦労したw かなり大人向けの話だからと普通の棚を探していたら、 仮面ライダーとかウルトラマンの棚にあったw 見つからなかったはずだ。 内容はエヴァンゲリオンの使徒をゴジラにした感じのリアル版。 最初っから戦う術のないゴジラ相手に、悠長に対策委員会とか、内閣対策本部とか、 机上の空論、渦巻く政治色、前例がないとマニュアル主義では太刀打ちができないとか かなり滑稽な展開から始まる。 ゴジラが最初ずるずる這っているのに若干ショックを覚える。 だんだん進化して、例のゴジラの形態になってよかったよかった。 東京湾のアクアラインに始まり、武蔵小杉、多摩川の浅間神社とか目黒区とか、 知っている場所にゴジラが現れると親近感。 逃げ惑う人々とゴジラの距離が近いわりに、みんな焦ってないw スマホ持って写真や動画撮ってるしw にげてぇー! 話の最終展開は、大団円になっているのですが、うまくいきすぎて不完全燃焼。 個人的にはこれを契機に、全世界が一つに的な、アメリカの属国扱いが終焉。 日本魂の復活とか、本気の大団円だったら、今後の日本の有り様の希望的遠景で素晴らしかったなぁ〜。 それか、もう徹底的にゴジラ怒って誰もいなくなった的なw 人間の傲慢って、政治家の傲慢、国の傲慢の延長線であって、 本来の人間が望んでいるものではないよね。 国、政治家の存在ってとても滑稽だなと思った映画でした。
パソコン作業が得意なので、DMのお仕事をちょいちょいいただくのですが、 それは私がギャラリーを運営していた時、漏れなく作家さんのDMを全て手がけていた時に 私の作ったDMを気に入ってくれた方が依頼をくれる。 写真の構図やデザインというものは、どうしても自分の「好き」な角度や構成が癖になっているので 自分の癖=個性は確実に大きなくくりとしてある。 でも、誰かの作品や写真が手元に来た時に、 どうしたらこの作品や写真が生かせる構図やデザインになるんだろう? と考えるうちに、自分だけだと思いつかない違った角度のデザインや構図が生まれることがある。 自分にはない表現や角度。 自分にはない感覚。 友達や家族、通りすがりの人、どこをどうやっても私というものは一つしかない。 誰かと出会って、話して、自分が持っていない感情に気づくこともあれば、失うこともある。 どんなに苦しいことでも、楽しいことでも、違いがあるってことがわかる面白みを、 DM作りながら、面白いなぁ〜と思うのです。
人といる時の心地の良さでいつも痛感するのが、 ・笑いのポイント (これは「一体この人は何に対して笑っているのか?」 わから無いから気持ち悪いし全然面白くない) ・怒りの沸点と質のポイント (これは、怒りが起こる沸点の高低差とレベルが違うと、 「いちいちそんなことで起こる意味がわから無い」とフラストレーションがたまる) ・話の合いの手のスピード感がシンクロする (たまに人の話の合いの手を入れさせ無いスピードでまくしたてる人が居て、上乗せのおもしろ話が伝えられ無い。辛い) そして、「アホ」になれるレベルが同質だということ。 以前付き合っていた方と飲みに行った時に、あまりにまったりしていたので 笑いの一発でも起こしとこ!とくだら無いことをいったら… 「それ、面白いの?」って言われたw だったらそっちが面白いこと言ってみろだ。 もうね、はたから見てくっだらないことを、すご〜く真剣に取り組んだ時の真っ裸っぷりは やった人じゃなきゃわから無い! この前、焚き火をした。 焚き火は土を窪ましたところでやっていたのですが、 そこに投入する木材が普通のなっがい板材だったので、焚き火の上に橋ができた。 一緒に火を炊いていた人が 「渡ろうぜ!」 と言い出した。 「じゃあ渡れ、渡れ!」 と、まくしたてると、すんなり渡った。 どんどん火は強くなる。 周りの人たちも 「実は火渡り憧れてたんだよね…」って言い、 思い切って渡った時に歓声と笑いが怒った。 もっと萌えたほうが面白いよね、って言う割に渡ら無い人にも笑いは起こる。 どんどん火は強くなる。 火渡りをするには、どんどんリスクが上がる。 上がれば上がった分だけ「アホ度」が上がる。 「アホ」の良さは、やら無い人じゃなくて、やる人だ。 子供のそれと同じレベル。 タロットで言うとこの「愚者」だ。 だから、一緒にアホをやってくれる人は、そうそう居無いw 大人のプライドだったり、石橋を叩いて渡ら無い頑固さだったりする。 ただ騒ぐんじゃないの、「アホ」やって度胸試しをしているのです。 アホ止められると、縮むんです「勇気」って。 色々理由をつけてごねる人じゃなくて、一緒に「アホ」やってくれる人は一生を共にできる感じ。 (知識や知性や美しさを損なわずに)「アホ」できるのって、ホント、素晴らしい!
どうにも人のため癖が抜けず、自分の時間や労力、 果てはポケットマネーを使って奉仕してしまう癖がある。 というのも、学びたいと思っても、昨今、大枚払わないと勉強ができない。 独学で本を読み漁るも、肝心要のところは 「もっと詳しく勉強したい方はこちらまで」 とかやっぱり導入部かよ!となる… 勉強したことを誰かと共有したいと常々思っていたので、 この前初めて友人知人に自分が面白く勉強したことをシェアしてみた。 と、どこまで面白がってくれるのかワクワクして待っていたら、以外に反応が薄い。なぬ? 懇切丁寧に説明したから順繰りに見ていけばいいのに… と、「全然わからない!」から見て〜!と説明を求められた。 お金を払って、時間を割いて勉強する人たちはやっぱり熱意があるのだ。 と、誰かがバカ高い勉強会のお値段を指摘されていたのですが 「バカ高いお値段を払う人の方が熱意や上昇志向があるので、 そういう人と繋がる方がいいから」 と言っていた。 ウンチクである。 本当に学びたい人を金銭以外で選別する方法はないものか…。
このところ、 なんじゃこら?! な出来事があり、久々に自分の中で問答をしておりました。 チームの主任的人物が、思っているよりも完璧でない割に、他人のアラを見つけてはチクチク因縁をつけるので、周りの人はその矛先が自分に向かないように王様か女王様でも扱うようなちょっとピリピリした恐怖政治空間で働いていたとしましょう。 人によっては怒りを買わないために嘘をついたり、他人の責任にしてみたりと、どんどん気持ちが減退していったのです。 いつも笑顔の人だって、どんどん顔から笑顔が消えますとも。 こういう時にとあるCMのテーマソングが頭をよぎります。 自分のやる気スイッチどこにあるんだろう? そう。 私もその状態に陥ったんです。 そしてちょっとキレたw 基本的に、のんびりだらだら楽しくがモットーの私としては 「やらなきゃなぁ〜」 って思っていながら、見ない振り、ちょっと棚にあげといたりと、色んなアイテムを使って回避するのです。 大抵そんな時、どこからか「怒りの元(もしくは悲しみの元)」がやってきていつもの数倍、もしくはそれ以上の勢いで物事が進むのです。 でも、不愉快な出来事があって初めて 「やる」 というのはいかがなものだろう?とも思ったんですが、 あれ? これやる気スイッチなんじゃ?と。 もしかして、感情が生まれるところに「やる気スイッチ」って落ちてるの?!と。 その時、それって、あの陰陽マークのバランスに似てない?と思ったのは、 以前中医学を習っていて、すべての物事は「バランス」でできてますと教えられたからです。 感情にはポジティブとネガティブ、表と裏的感情があると思うのですが、 完璧なポジティブだけだったとすると、 私は十分に持っている。だからこのままで良いのです。 となって、それ以上成長しないかもしれない。 (以前誰かが、人間は怠惰な生き物だと言っていた気がw) ポジティブの一部にほんのちょっとの「欲」が加わると、貪欲さに繋がって、 だからこそ、こんなに文化や工業が発達したんじゃないの?と。 逆に完全なネガティブも、生きてるのめんどくさいからもう死んじゃいたい的な気分の究極に、 ほんのちょっとの「希望」があれば、エネルギーになって頑張れる。 究極の善も、究極の悪も、究極の白も、究極の黒もない。 何か(感情)が生まれるのって、そういう状態なんじゃないかと。 そんな時頭をよぎったのが、障害者施設の人たちを殺傷した男の人のこと。 (あの事件からず〜〜〜〜〜っと心の片隅で反芻していた問題なのですが…) 世の中にはやってはならないことがルールとして決められていて、彼のやったことは全くもって「いかん」ことだとされてます。 私もそれは同意なのですが、彼は究極まで気持ちが「落ちた人」だったんじゃないか?と。 彼の思考の中では、「楽にしてあげた」 とか 「手伝ってあげた」 という善意であの殺人を犯したんじゃないかと。 だって、彼は何の悪意もないので自分のやったことを「正しい」と思っています。 けれど、私たちの常識からすると検討外れのところで「善」を表現したのでは?と思ったんです。 間違ってても、彼はその「ポジティブ」にすがったんじゃなかろうか? そして、良くも悪くも、確実にあの事件で私たちの感情はものすごく揺れた気がします。 感情が動くところに何かが発生する。 色んな事件や事故、天災の中で、悲しいことや、怒り、喜びや、楽しさが生まれるのですが、 何かの「スイッチなんじゃ?」と思う時があります。 そう考えたら世の中 やる気スイッチだらけ なんじゃないの!w ということで、落ち込んで「なんじゃこら!」で陰陽マークにたどり着いてしまいましたが、 バランスよく、変な善意や悪意を振り回すことなく、真摯に毎日を戦いたいと思ったのでした(マル)
たまたまテレビで見ていた番組に「しいたけ占い」のしいたけさんが出ていた。 (しいたけ占いとは、しいたけさんという占いの人のトツトツとした感じの占い。→しいたけ占い) 占いとはなんぞや?とか、間違えてはまると酷い目に会うよとか、占いの使い方的な番組だった。 基本私は占いを使用する時は心が弱くなっている時だと思っているので、 丸呑みにしないように頑張りつつ、自分のまとまらない悩みを整理する時の「ツール」として使っているかと思います。 (というか、誰かに「聞いてぇ〜!」モードだけど、身内にも知り合いにも友達にも話せない時もあるよね〜的なw) しいたけさんは、日本の占いは「アメリカのカウンセリング」の立ち位置として、 心の悩みを解決、フォローする場所と言っていた。 で、その昔、しいたけさんも直接ホロスコープのカウンセリング?をしていたそうなのですが、 相手を前にしてどういう心持ちでホロスコープを読むのですか?という質問に、 「おじいちゃんて、目の前にいる子がどんな子であろうと、生きて存在しているだけで 愛おしい! って思いますよね。 そんなおじいちゃん的な存在が居ても良いんじゃないかという気持ちで占ってます。」 と、言っていた。(記憶で書いているのでちょっとニュアンスは違うかもなのでゴメン) そう! 存在しているだけで「愛おしい!」って、 親だと、「うちの子はこうあってほしい」とか、「きちんとした子にしなければ」とか親のエゴや責任や期待がどうしてもあって、ただその子が生まれてきてくれたことを無責任に可愛がることはできないでしょう。 じいちゃんやばあちゃんは、もうそんなことに執着しないんですよ。 私が大学生の時に、友達(女性)が一生の記念にと、つるっぱげにした。 その友達の田舎にみんなで遊びに行った時、 帰ってきたその友達のつるっぱげを見て、おばあちゃん。 「あらぁ〜。その頭。ばあちゃんはいいのよ。お母ちゃん泣くわよぉ〜。」 って言ったのです。 ばあちゃんにとっては、孫がつるっぱげだろうが可愛いけど、親としては女の子が頭を丸めるってかなりショックなことだし、世間体とか色々単純に許すことはできないことなんでしょう。 自分がいつだってばあちゃん(じいちゃん)の目線で居られるのって、凄いことだと思ったのです。 友達だろうが、自分の親だろうが、そして自分自身の拙さだろうが、 「生きてるだけで、愛しい!」 って思えることができれば最強の相談相手だ。 それは「許し」にも繋がるかもしれない。 ちょっと立ち止まって「ばあちゃん(じいちゃん)」になってみて! ふわっと世界が変わるのだ!