何かをしくじったときに「罰ゲーム」をすることがある。 たまたま見ていたテレビの情報でふと気づく変なテーマが今回はこの「罰ゲーム」。 ある人にとっては「歌うこと」が苦手で、それは罰ゲームになりうるけど、歌が得意な人にとっては楽しい出来事でしかない。 罰ゲームはその人にとって苦痛、苦手なことが対象になる。 そこで、自分の苦手は何だろう?と考えてみた。 よく、肉体的な痛みとして、電気ショックとか、デコピンとかそいうのは確かに苦手だけれど、これは誰しもが苦手なこと。 万人にとっての苦痛は罰じゃない、ただの苦痛。(他人の不幸は蜜の味的な…) そんなこんなで、私にとっての罰ゲームはただじっとだまって座っていることかもしれない。 なんにもしないこと。 でも、これは周りの人が楽しめないし、自分とって苦痛だけど楽チンですww(一生って言われたら怒るけどね) 巷の「罰ゲーム」は当人の「困ったな、恥ずかしい、いやだなぁ」を周りの人が楽しむという要素もある。 そんなこんなで、人様が苦手なことが、意外に苦手じゃないことに気づいた。w でも「罰ゲーム」として、怒鳴られ続けるとか、おやつ抜きとか、いろいろ考えてはみても、私にとっての「苦痛」はとても原初的な誰もが「苦痛」と感じることなので、周りの人が「いじめ」的によってたかっていじめる内容のことになる。(他人の不幸は…的) よく人付き合いが苦手、人前で話すことが苦手、歌うことが苦手、絵を描くことが苦手、とか、「苦手」は、もしや、「上手じゃない」ということが根底にあるのでは!? おや?! そして、克服ができそうな物事には、喜びや、笑いがくっついてくる!? 本当の罰ゲームって、「できるようになる」ことなんじゃない? 罰ゲームは「克服ゲーム」だとしたら、とてもハッピーなんじゃない?
たまたま「駅ピアノ」という番組を見た。 駅の通りすがりの人が誰でも弾いて良いというピアノがある駅で、そのピアノを弾く人たちを映像にしたものだ。 NYだったり、アムステルダムだったり、フランスだったり、今日本でも増え始めているのかな? 小さい頃習い事で習った人、辛い境遇の中で覚えたピアノが今の人生の生きる糧になっている人、人とのコミュニケーションのために弾いている人、それを仕事にしている本物のミュージシャン。 様々な通りすがりの人たちがピアノを弾いていく。 どういうきっかけで音楽に触れ合ったのかはいろいろあるのでしょうが、何気なく「弾きたいな」と、何気なく「言葉にはできない思いを吐き出したい」と、表現できるツールがあるということは素晴らしいと思った。 誰かに評価されることでその音楽は成り立っているものではない。 自分自身のための音楽だ。 でも、その音色から受け取る感情を誰かが通りすがりに耳にして、何かしらの余韻や感情を持ち帰る。 表現をするということは、本当は当たり前に手元にあって良いはずなのに、日本では「Special感」が否めない。 下手だから。 上手に弾けないから 恥ずかしい だから、特別な人しか表現は許されていない…? いえいえ。手元にあるそのツールが、本当に素晴らしいものだということ。 下手だろうが拙かろうか、音楽というツールに乗せて自分というものがどういう人であるのかを表現し伝えることができる。 料理もしかり、芸術もしかり。 表現というツールに屬するもので、「下手」とか「恥ずかしい」は皆無だ。 それに気づくことで、自分を閉じ込めなくて良いことになる。 そうすると、不思議に誰かの表現にも気づくことができる。 狭い世界から、広い世界へ。 なんと豊かなんでしょう。 と、その番組をみて、涙があふれたのでした。てへ。
ママチャリに多いのですが、自転車に乗ってる時にブレーキを握っていない人が多い。 子供を後ろに乗っけてすっごいスピードで走っているにも関わらず、ブレーキ握ってない!!! 曲がり角も一時停止なしにギュン!と回っている。 あぶね〜! そんなこんなで、気になっていつも自転車に乗ってる人の手元を見てしまう。 以外に男性はブレーキを握っている人が多い。 自分もそうですが、自動車に乗るであろう方達は握っている率が高い。 これはもしや「自転車に乗っている人が危ないものに乗っている自覚がない!?」のではなかろうか? それなのに、電動自転車とはもうすでに免許持ってない人に二輪車状態…。 責任感を持たせるにはやっぱり自転車も免許制度があればいいのに…。 ちなみに、自動車教習で教わったことで、 人が歩く速度は時速5〜10km、自転車の速度は20〜30km。 明らかに人間より早いし、自動車の低速のスピード。。。。 やっぱり危ないよね。
目標があったとする。 それが個人的なことなのか、グループ単位でのことなのか。 個人的なことでの目標は、いかに自分の熱(勢い)を減らすことなく目標に向かって注力するかがネックになってくる。 グループ単位での目標になると、そのグループ内での方向性への熱量が維持されることがネックになってくる。 そんなこんなで、同じ目標を持つグループがあったので入ってみたら、なんとも「みんなで」という言葉が飛び交い、果ては「どこへ?」という迷走を感じた。 リーダーが居ると、その人に依存する人たちが集合してくる。良いのか?それで。 誰もが「きっとこの人の言うことは正しいから、従っていればいいんだろうな」ぐらいの心地で動くだろう。 でも、仕事のプロジェクトだと考えると、誰かが正しいことを言っても、「最終的に部長がジャッジメントだから、私たちが良いと思っても叶わない…」と、最終ジャッジを放棄する話になる。(責任を負いたくないという問題点も含有する) 先頭に立つ人はある意味熱(目的)の震源地だ。 震源地のリーダーがまず話の火種を付け、その周りにいる誰もがリーダになりうる存在だったら、かなりクオリティーの高い仕事ができる。 今のアメリカ大統領は良い意味でも悪い意味でも「震源地だ」。 良い意味では、「この人やばいよね」と、周りの人たちが団結して「NO」を言える状態ができている。今、これに気づかないでのほほんとしていたらやばいと思う。 悪い意味では「愛国心って素晴らしい。自分たちだけが勝っていれば問題ない。」って思う人たちが多い場合、そこには平和はない。 世界の岐路の選択。 それぐらいの意味があるように思う。 日本がそのアメリカに陰ながら(もうすでにかなりの人がアメリカへの属国ぶりを知ってはいるものの)支配され、私たち日本人が持つ「和」の心を失いつつあると思っている。 日本の震源地、これで良いのか? これ、言い出すと私かなり口が悪くなります。w 美しい日本魂。 ああ、勝海舟とか坂本龍馬とか、良い人は殺されちゃうしなぁ〜w 正しいと思う方へ、美しいと思う方へ、愛ある方へ舵取りしたいものです。 やっぱり物事の中心になる人は居ないとダメなんでしょうね。。。
人間観察に最近(ずっと前から?)自信有りのワタクシ。 昔から、初めましての人から感じる”人となりの分析力”があったような気がします。 「ああ、この人こんな感じ」 という感覚。 それはどの分野でもあるのですが、以前大学の頃演劇サークルに居たのですが、 演技をするということに内在する「真実」の表現。 泣いている演技で、ただ泣けば良いということじゃなくて、 その話の中でその役柄の人が感じている「泣く」とシンクロしていることに意味がある。 そこには「想像力」が必要だと思います。 映画も好きで、歌舞伎も好きで、バレエも好きで、美術も好きで、色んなことが好きで…。 それをただ観るのではなく、その映画のその人、その歌舞伎の踊りのうまさ、 バレエの技術と精神性とか、美術作品の技術とその人となりの持つ審美眼の根底。 全ての中に、創造性・想像力を通した表現力が内在していると思います。 で、たまたま見ていたテレビのインタビューで、役者さんが役柄に取り組む姿勢から感じる 「創造性」や「感じる」という行為そのものを理解しているかどうかが気になった。 私の「良いな」という中心核には、もうその人の肩書き、仕事の役割を超えて 人としての創造性や広がりを感じる。 その創造性を理解している人の安心感は、言葉にしなくても感じ取る増幅性がある。 楽しいことが二乗で増えていく。 その逆で、想像力のない人の言葉や行動に「何故?なんなんだ?!」も半端なく理解に苦しむ。 それは、他人が感じていることを自分のことのように「想像する・感じ取る」ことの欠落があるからだ。 話をするときに、自分がこういったら、相手はどう返してくるだろう? そこには想像力がある。 帰ってきた言葉に対してのキャパの大きさもある。 俗に言う「アドリブ」に近いかもしれない。 どんな言葉が帰ってきても対応できる強さは、知識と経験と想像力なのかもしれない。 自分が今まで培ってきたその力が、今すごく財産だと思うし、 この嗅覚で楽しい人を探し出す能力は、自分の宝だと思う。 想像力の源は「興味」。 想像してご覧! その力があったら、戦争なんて起きないから…。 Imagine